2013 新春鼎談

T:谷村英司 N:中白順子 M:松嶌 徹


T:新しい年が明けましたね。今年もよろしくお願いいたします。

M:こちらこそ、お願いします。

T:今年は中白順子さんが忙しくて参加できないということで、鼎談ではなく対談という形になってしまいました。男同士で何か花がなくてむさくるしいですが何とか頑張りましょう!

M:このスタイルは久しぶりですね。間に合えば、中白先生には元気なお顔の写真だけでも参加いただきましょう。

さて今年の話の前に、昨年は特に後半、群馬のフェスティバル、11月は仙台でのヨガ療法士講習と続けてご指導ありがとうございました。

T:こちらこそアレクサンダー・テクニーク(以下、ATと略)を皆さんに学んでいただく機会を与えてくださってありがとうございました。これを期に一人でも多くの方が興味を持っていただければやった甲斐があります。

そして去年を振り返ってみると、私にとってやはり母が亡くなったことは大きな出来事でした。そしてATの世界では私の先生だったヘズィーさんも…。

M:靖子先生、お別れは残念で寂しいことですけれど、ご最期は力の抜けた、みごとな逝かれ様でした。それもお元気なときに悔いのないよう完全燃焼しておられた、毎日の積み重ねがあればこそだったのでしょうね。

T:そうですね。治療中も何も悔いはない、いい人生だったと何度も言っていました。

M:私と先代二代、公私ともにお世話になりましたし、ほんとうに多くのことを教えていただきました。思い出し、挙げていくときりがない。そんな思いの会員は大勢いるので、3月の[サットサンガ]で改めて一緒に感謝の時間をもちたいと考えています。

ヘジイさんも、言葉の通じない異国で、よく続けてくださいましたね。それも英司先生をはじめ、吸収する意欲と準備のできた人との出会いに恵まれたからに違いない。

T:そう考えると、人はこの世に生まれてご縁のある人達から良いことも悪いことも含め何かを学び、その学びを通して自分なりに理解し、それをまた縁のある人たちに出会いの中で伝えているのかもしれません。そして命が尽きたところでその人の今生での仕事は終わりますが、この世ではその人から学んだ人がそれを受け継いで生き続ける…。

M:もしも人類が歴史を重ねることで進歩する可能性があるとすれば、科学技術とかではなく、人から人にしか伝わらない“理解”なんでしょうね。さんざん痛い目に遭って、その末につかんだエッセンス。

T:人から人にしか伝わらない理解…。面白い表現ですね。そして現代社会において非常に大事なことのひとつかもしれませんね。というのも今の社会において言葉による情報のみが氾濫している。言い換えれば言葉だけの交換、理解が氾濫しているように感じます。ですから今言われた人から人にしか伝わらない理解というものが失われつつあるようです。同時にこの重要性も見失われてしまっているようです。これはヨガやアレクサンダー・テクニークにおける学びと大変関係のある話題のような気がします。今回はこの話題から話を展開していってみてはどうでしょう?

M:そうですね。たとえば、東日本大震災という衝撃のおかげで私たち人間は隣りにいる人との“絆”が大切なんだって思い出したはずなのに、被災地から離れたところでは言葉だけ、イメージだけの世界に戻ってバラけようとしている気がします。その証拠のように復興予算が妙な使われ方をしたり、原発問題が選挙の看板になったり。あんな過酷な経験をしたのに、その意味をほんとうに理解していなかったのかと…。あるいは理解しても、すぐに忘れてしまうのでしょう。それは個人的な体験も“情報”に置き換えてしまう時代の大きな問題ではないでしょうか。またそんなときに、ヨガやATを通じて私たちに何ができるのでしょう。

T:何ができるのか。…私が思うに、この“人から人”にしか伝えられないものの大切さを再認識してもらう場としての役割が重要なのではないかと思います。この重要性が失われつつある社会だからこそ。

M:家族や恋人どうしでもメール連絡で済ませるようになったり、便利さとともに一気に今の傾向が進んだような感じがしますねえ。

T:話を分かりやすくするために具体的にATのレッスンを例にとって言いましょう。

私もかつてはそうだったのですが、学びに来る多くの人は言葉を通して学ぼうとします。そして言葉を通した想像力で理解を進めようとします。そしていつの間にか言葉や想像が独り歩きし始めます。つまりバーチャルな世界が進行し始めるわけです。バーチャルな世界には今回のテーマの“人から人”ではありません。言葉から言葉、想像から想像の世界です。そこには人が入ってこないのです。いや、もっと正確に言うと、そのことを言った人はいるのですが意識の中で人は削除されるのです。

M:会話から誰がどんな顔で、どんな思いを込めていたかという要素が抜け落ちちゃうんですね。日本の、とくに女の子たちは顔文字を編み出してコミュニケーションしているけれど、それだってバーチャルなわけで、(^J^) とするか (>_<) とするかなんて本人の気持ちとは無関係にできてしまう怖さ。

T:今そのことの“怖さ”とおっしゃいましたが、そう感じること自体が重要ではないかと思います。ほとんどの人はこの“怖さ”さえ感じていないのではないでしょうか? 多くの問題はこのように僕たち一人一人の無意識下で進行しているもののような気がします。無意識なだけに癌細胞のように人間の心の中で知らず知らずのうちにどんどん侵攻されてゆくわけです。だから「それがどうして怖いことなのか?」から話してゆかなければならないような気がします。とくにヨガやATはからだを扱うもので、それだけにこのことを理解しておくことは大切なことだと思います。なぜなら先ほどまでに話していたバーチャルな世界にはからだは存在しないからです。あるのはからだと思っているのは頭の中で想像しているバーチャルなからだなのです。

M:現実のからだでおこっていることと、自分がしているつもりのバーチャル・ボディが解離していくんですね。対人関係どころか自分のからだすら認識していないから、たとえば生徒さんに「肩の力を抜いて」と言うと「はい!」と元気よく答えてくれても、思い切り緊張している肩になんの変化も起こらないのがふつうです。そんな状態で“気持ちよくヨガをしているつもり”になっているだけの人がいかに多いことか。

T:そのとおり! からだを扱うワークに「そんなつもり」、「そんな感じ」、「そんな気分」のなんと多いことか。これらがからだにたいするバーチャルな固定観念を作り上げていて、本当に起こっていることの理解を妨げているようです。なぜならそれらが意識の表面を覆っており真実を見えなくしているからです。

面白いことにおなじバーチャルな人間でも二つの両極のタイプがあるようです。容易に信じ込むタイプとむやみに懐疑的、否定的になるタイプです。

M:レクチャーなら最前列でしきりに“うんうん”、“そうかぁ☆”などと目に星を浮かべてうなずいてくれている人と、斜め後ろのほうで自分の世界から目だけを出して感想や質問も出てこない人ですね。…どっちもむずかしいな。

T:どちらも本当のことは見えていない。なぜなら自分自身で作り上げたバーチャルな世界を見ているからです。もちろんそんなつもりはないでしょうけど…。

M:で、問題は、自動的に起こるそんな習慣を、どうすれば変えられるかですが、せっかく長い間に創り上げてきた自分のバーチャル・ワールドから出るなんてできない…。

T:そうなんですよね。この状態からどうすれば脱することができるのか? それが問題です。でもこの問題に入ってゆく前に意識のバーチャル化の結果からだと意識がバラバラになっている現代人。それがどうして問題なのか? どうして恐ろしいことなのか?  それをもう少し明確にしておく必要があるように感じます。なぜなら、さっきも話したようにこのことを問題だとも恐ろしいことだとも感じていない恐れがあるからです。そうでないとこの問題解決に向けてのモチベーション(動機)ができません。問題と感じていない人がその問題を解決しようという意欲は出てこないでしょう? 

M:少なくとも今日の差し迫った問題より、後回しになりますね。健康と病気、良い状態と悪い状態の間には線が引けるものじゃなくグラデーションになっているので、問題かな?と感じても、すぐに「これくらい、まだ大丈夫」って習慣的にGOサインを出し続けますから。

T:これを読んでいる人たちが「あなた方が話している問題は、あなた方にとっては問題なのかもしれませんが、私とは何の関係もありません。だからそんなことに関心がありません」と言うかもしれません。そこで私が言います。「いえいえ、この問題は誰もが一人一人内面で感じている問題ととても関係があるのです。個々人の問題の根本的なところでとても関係のあることなのです」と。でもこんな言葉で簡単に理解してもらえるとは思えないのです。

たとえば腰痛を持っている人が私のところに相談に来られたとします。そしてその人に私が「それはあなたの意識がバーチャル化しており、意識とからだがバラバラになっているからです。まずそのことの問題について考えてゆきましょう!」なんて言ったとしたら…。きっと「そんなことは私と何の関係もありません」というのではないでしょうか?

M:それより早くこの痛みをとってください! 能書きはあとで聞きますから、と言っても痛みが消えてからからだのことを考える人なんて、まあ少ないですね。だからこの頃は簡単に痛みをとっちゃうこと、病気を治すことは本人のためにならないのではないかと思うくらいです。

T:(笑)それはちょっと言い過ぎかもしれませんが、その気持ちは理解できます。だから我々が話している問題は、人は“治療”に来ているのか? “癒し”に来ているのか? それとも“学び”に来ているのか? この問題に集約されるのではないかと思います。要するに先ほど話した人たちは“治療”や“癒し”を求めているのであって、“学ぶ”ことは望んでいないということではないでしょうか?

M:とりあえず、この痛み、このつらさ、このお肉をなんとかしてほしい、というのが多くの場合、まず先決とされて。

T:でもおかしいでしょう? “教室”と言っているではありませんか。教室なのだから学ぶ場ではないでしょうか? ATはその辺はハッキリしていて、ATは“教育”だと言っています。というのもそういう場であるという理解をせずに来られる生徒さんが多いからです。ヨガ教室に来られる生徒さん、教えている先生双方にはたしてここは“学ぶ場”であるという意識はあるでしょうか?

M:確かに“ヘルスセンター”になることはありますね。あ~、よく寝たぁ~といって帰られるとか、教室の仲間とのおしゃべりが楽しみで、とか。眠気や疲れは正直な実感だし、友だちや先生の存在も現実につながるものですから否定するわけじゃないけど、いつもそれでは“教室”の看板はおろしたほうがよさそうです(笑)。

T:“癒しの部屋”とか“眠りのスペース”とかに看板を替えた方がいいかもしれませんね。(笑)でもそれはもはや“学ぶ場”つまり教室ではない。それはそれで何らかの役割を持っているのかもしれませんが、少なくとも私たちが今話している事柄を話せる状態ではない。

M:確かに、なにを言っても子守唄…。それでは指導者側もいっしょに眠っているようなもので、そのうち飽きますね。

あと、よくある別のパターンとして、真剣に努力をしているんだけど、それはいつか過去にあった痛みがなく元気だった頃、あるいはスマートだった時点に戻りたいという期待を抱いているときも、先生のおっしゃるバーチャルな意識状態にいると言えませんか? それは“今ここ”にある自分よりも、過去か未来の、実は存在していない自分に意識が向いているわけだから。“治療”を受けるというのも元に戻してもらう、あるいは良くしてもらうという“今ここ”にいたくないという態度である点、共通していますよね。

T:確かにその両方ともバーチャルなものを目指しているという意味では共通していますね。そしてそのバーチャルな意識にはまり込んでいる危険性について話してゆきたいわけですが、今はそれ以前に明確にしておかなければならないことがあるのではと言っているのです。なぜならバーチャルな意識の危険性に話を進めてゆくためには“学ぶ場である”という条件が必要な気がするからです。先ほど話した治療とか癒しとか眠りの場では到底無理ではないかと思うのです。薬やいろんな力で治したり、症状を和らげることはできてもそこには自分の状況を理解することはできない。もちろんこれらの場の立ち位置をハッキリ決めてしまう必要はないとも思います。ただしバーチャルな意識について話を進めるときには学ぶ場だと自覚してもらった方がいいということです。

M:その前提として押さえておくべきなのは、バーチャルな世界には現実を変える力は無いということですね。いや、状況を一層悪くする可能性は高いけれど、改善することは、まずない。

T:そうです。バーチャルな世界には現実をより良い方向に向かわせることはできないけれど悪い方に変え、世界に影響を与える力はあるのです。それが現実に起こりつつあることだと思います。そしてそれは一見良いことのように思わせる力、魅力的な力があるのです。だからこそわれわれ人間はそこにハマリやすいのだと思います。そしてさっき会長がおっしゃったように手放し難い。魅惑的で善行的、快楽的、お気軽で容易、機械的、停滞、眠り込み、閉鎖的、攻撃的そんなイメージが私にはあります。だからこそそういうものに対抗するためには教育という場が必要な気がするのです。

M:そこでバーチャル・サイド、というと『スターウォーズ』のダーク・サイドみたいですが、バーチャルな感覚にいる人が目覚めるための学びの場なら、そこにいる教師の資質、心得や技術が問われます。いちばん重要なのはどういうことだと思われますか?

T:そうですね…。まずバーチャル・サイドに対してリアル・サイドというものがあるとしておきましょう。そう考えるとバーチャル・サイドの常套手段は、それがあたかもリアル・サイドのものかのように信じ込ませることだと思うのです。だから“幻想”という定義は、それは実はバーチャルなものなのにそれをリアルな出来事のように見ている。あるいは感じていることだと思います。

M:みんなで一緒にバーチャル・サイドに落ち込んでしまうのが、去年亡くなった吉本隆明が“共同幻想”と呼んだ状態ですね。

T:だからバーチャルなことをバーチャルだとみているのは幻想とは言わない。テレビや映画を楽しむように…。

M:いやあ、僕はブルース・リーの映画を観てから空手を習い始めたなぁ(笑)。1年ほど痛い目にあってから、あまり向いてないことに気付きましたが。

T:このように考えてゆくと、重要なことはこの幻想を生み出さないこと。あるいは幻想を生み出したとしても気づいて修正できること。そして幻想に惑わされないことではないかと思います。

M:だからブームなんていうのは、いつも危ない。吉本隆明はおもしろいことを言っていて、「共同幻想の世界では個人が幽霊としてしか存在できない」って。踊らされる幽霊にはなりたくないですね。

ただ困ったことに、国とか社会、組織まるごとハマる共同幻想とは別次元で、個々の人が落ち込んでいく“自己幻想”というバーチャル・サイドもあるんですが、さっき指摘された傾向の、眠り込んだり閉じてしまうのはその典型でしょう。やっぱり幽霊みたいなもの。教室で気づかなくてはならない、気づいていてほしいのは、F.M.アレクサンダーが“本能”と呼んだように、ほとんどの人は自覚もないうちにハマリ込んでいく事実。

T:そうです。私が先ほど話したようにわれわれの無意識下で知らず知らずのうちに進行している。F.M.アレクサンダーが指摘したわれわれの“習慣”というのもこの種のものです。そして面白いことにこのことを指摘されてもほとんどの初心者は何のことだかわからない。自分自身がそんなことをしているかどうかがわからないのです。

M:なぜかというと…。

T:意識がバーチャル・サイドで生きてきたからです。

からだはいつもリアル・サイドの存在です。ところが意識は固定観念からすぐに想像したり、良いことを目指したりしてバーチャルな反応をします。したがってリアル・サイドのからだが今何をしているのか皆目とらえることができないわけです。

M:先日わかりやすい話を聞きました。コンピュータのボーリング・ゲームでうまい人にかなわなくて、悔しいから本物のボーリングに連れて行ったら全然ダメだったんですって。いつも意識は幻想世界でからだから切り離されていれば、いずれ使い損なって壊してしまうのも当然。だから、本物の世界に導く教師やからだとつながる教室が必要なわけで、“体験”すればその意味が分かる。私も弱いのは分かったけれど、空手の爽快感は本物だったから大学でも続けたし。意識をリアル・サイドに引きとめてそれを理解するよう導くのが“学ぶ場”の目的だということですね。リアル・サイドの手掛かりとして最高の存在であるからだを通して学ぶ上で、バーチャルを許さないATに意義がある…。

T:というよりも私の場合は、ATを通してこれまで話してきたことの大切さを、経験を通して理解できたので、他の人たちにもATを学ぶということを通して理解してほしいと思っているのです。

M:長年続けられてきたのも、リアルな体験の連続だったからでしょう。私も、その実感を伴う経験はヨガアサナをする上でも欠かせない要素だと確信しています。各地で広がっているAT研究会で、教師の先生がたとこれからもご指導よろしくお願いします。

ところで、インドの伝統ではからだこそ仮のもの、バーチャルだと言い切ってしまうことがあります。アートマンとか深い意識だけが実在だと。ハタ・ヨガはそのあたりのバランスを求めたのだと思うのですが、いっぽうでからだをバーチャル化してしまうかのような、たとえば新体操とかボディビルのような世界はどう考えられますか?

T:いやいや、必ずしも新体操やボディビルがからだをバーチャル化するものと断定することはできないと思います。そんな風に何々がバーチャル化するもので、何々はそうでないという風な分け方をすると混乱してしまうような気がします。ですから「何々が…」ではなくそれを「如何にしているか?」と問うべきでしょう。

M:そうですね。何をしているから大丈夫、なんていう態度こそバーチャルに陥っている証拠のようなもので、眠り込みへの呪文。

T:つまり一歩間違えばATだって、アートマンだってバーチャル化されてしまうのです。人間はなんだってバーチャル化してしまうのです。しかも知らず知らずのうちに…。

M:まったく油断できない。変化は少しずつ起こりますからね。

T:これまでの話でも、からださえ相手にしていればバーチャル化しないと安心してはいけません。われわれはからだだってバーチャル化しているのです。それがからだの固定観念となって本当のからだを理解することを妨げていると思うのです。

つまりわれわれの意識は固定観念というバーチャルなものに触れているのであって本当の自分自身のからだに触れていない。…そう!ポイントは“触れていない”ということなのかもしれません。

M:長年からだについて考えてきたつもりの私たち年寄りも、いつも注意していないといけないことですね。習慣や固定観念の塊みたいなものですから。

あと若い人についてひとこと言うなら、このごろ夢や理想というものを持っていない若者が多いっていわれますが、それもバーチャル文明と関係しているかもしれません。リアルな自分から離れたら、具体的な夢や理想は生まれてこない。思いつくことはしょせんバーチャルな妄想だから人には伝わらない。そんな人は、となりにいてもどこか“触れられない”感じがしますね、幽霊みたいに。だから、触れている、その感覚が「人から人に伝わる“理解”」の特徴でしょう。

T:そのとおりだと思います。“触れること”が“繋がること”の第一歩だと言えるでしょう。“絆”というのも繋がりでしょ?

M:あの被災地への応援メッセージのなかで、差し伸べられた手や手をつないだ人の輪の、思いが伝わってくるイラストがたくさんありましたね。

T:それと比べれば、パソコンのネットで知識としてその情報を得たとしてもその人は誰とも触れていない。それと比べて人から人へ伝えられたものはチョット違うでしょ? 言葉だけではどうしても伝わらないものも伝えてられるような気がします。絆は目には見えない。でも何か伝わっているという実感がある時にわれわれはその人との絆を感じるのではないでしょうか。

M:そうですね。今年のテーマは“人から人に伝わるもの”にしようかな。いま思えば、教室でご指導することがマニュアル化、バーチャル化する危なさを感じて、30年前に尚美会グループ全体のテーマを「伝えたいのは、愛」というものにしたんですが、いま切実に必要な時代なのかもしれません。

昨年流行った“アセンション”ていう話も、この世界のバーチャル化を感じて逃げ出そうと望んだ、また別のバーチャルな想像だったのでしょう。

T:それは単にバーチャルからバーチャルに移っただけで、本質には触れていない。ある夢から別な夢に代わっただけで夢には変わりないわけ。

M:共同幻想は「これが現実だ」って誘い込み、自己幻想は「これが本当の私」って固めちゃう。で、その間を行ったり来たりするけど、両方ともに実体はない。

T:バーチャルな世界はそういうトリックを使います。瞑想や禅の修行に師が必要な理由はそこにあります。修行者は知らず知らずのうちに“魔境”と呼ばれるバーチャルな世界に引きずり込まれるからです。バーチャル・サイドのそういうトリックに騙されずにリアル・サイドに触れることが大切で、つまりそれは今ここあるものを見たり聞いたりして感じること。まずそこから始めてみてはどうでしょう。

M:体に入る食べ物でさえ化学的に作られたバーチャルなものが多いからか、からだが混乱してヘンな病気も増えています。宣伝を鵜呑みにしたり不自然な安さや安易さに飛びつく前に、自分の感覚を信じる、そんな態度も、世界をリアルに感じて、からだのどこが緊張し、ゆるんでいるか、広がっているか、元気でいるか、そんなことを感じることで養える。教師はそのお手伝いをしてこそ、ほんとうの健康法指導者といえるわけですね。

T:感じることで養えるものがある。それが“言葉だけでは伝わらないもの”。バーチャルな世界では絶対に理解できないものです。リカさんの先生であるパトリック・マクドナルドの著書に「この本を読んでも絶対にATを理解することはできない。しかしATを実際に経験している生徒なら何らかの役に立つ」と言っています。つまりバーチャルな世界では自分自身の世界を見ているだけであって、それ以外のものには触れていないのです。

M:リアリティを知っていれば、バーチャルな言語も自分の体験の理解の助けにはなるということ。言葉から広がる想像の世界はからだの体験とは違う。

T:からだを感じるということはそれに触れるということです。そして「私は本当に私のからだに触れているのだろうか?」と自分自身で問い、その結果からだの内側から生まれてくるものを経験し、その大切さを理解してもらうことが教師の仕事だと思います。

私も今年は年男です。いつの間にか60才になってしまいました。でもこの年になって生徒に何を伝えるべきかがやっとわかり始めています。そのひとつが今回の話したことなのです。

M:からだに触れる、自分のからだを知ることが現実の世界に通じる道だという確信を得られたということですね。生徒さんや研究会の教師の皆さんもまた、その道でリアルな自分につながった実感をお持ちのようです。

T:みんなATに出会うまではあれでもないこれでもないとあれこれ手を出してはみるけれど、結局は見つからない、なぜならバーチャルから別のバーチャルに移っていただけで、見つからないのは当然だったと気づくんですね。だからそんな人たちは今やっていることから別なことに移ろうとしないで、そのバーチャルな意識に気づいてリアル・サイドに触れてみようとしてはどうでしょう。今年1年をそんな年にしてみてどうでしょう。

M:遅すぎることなんてないのですからね。もしかするとそれまでの自分の世界を否定されるように感じるかもしれないけれど、失敗があったからこそ気づけることを直視して、シンプルに受け入れればいい。

T:失敗がわれわれを成長させてくれる。確かに失敗と気づいた当初は落胆し、自信を無くすでしょう。人間だからね。

M:で、居心地のいい感覚、実は眠り込むような習慣に逃げ帰る。

T:でも少し時間がたって冷静になれば、いつまでも落胆してやる気をなくしていても、失敗を恐れてうずくまっていてもしょうがないことがわかります。冷静にそのことを認め、整理し前向きに進むしかないでしょう。われわれ人間が成長するにはそれしかないように思います。“前向き”という言葉でF・M・アレクサンダーが言った“コンストラクティヴ・コンシャスネス”(建設的意識)という言葉を思い出しました。成長したい人間にとって大変重要な意識の状態だと思います。

M:目覚めている実感ですね。それこそが“人から人に伝わるもの”。

T:成長する人間にとって失敗と落胆は避けられない試練だと思うのです。そこから立ち上がりまた前を向いて歩きだす精神こそ学ぶべきことです。このことを人から人へと伝えてゆきたいですね。言葉だけではなく…。

今年は否定的意識に負けないでこの意識で行きましょう!

M:ほんとうに。

なんとか間に合った中白先生、新年もよろしくお願いします。

N:こちらこそ、よろしくお願いします!


新刊紹介

『自己の使い方』

アレクサンダー・テクニークの創始者フレデリック・マサイアス・アレクサンダー自身による手引書です。ATを学びたい人には必須の教材です。健康関連の叢書のひとつとして購入しておきたい本です。

訳者の横江大樹(DJ)さんは名古屋のATスクールをやっておられるAT教師です。縁あって当研究会の人たちとも懇意にさせてもらっています。日本の訳者の誰もがその難しさに避けていた書物をついにやり遂げた秀作であり、労作です。彼の努力と勇気に敬意を表します。

日本アレクサンダーテクニーク研究会・代表
谷村英司

購入方法:日本AT研究会までお問合せください。