2018 新春鼎談

T:谷村英司 N:中白順子 M:松嶌 徹


松嶌(M):明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。

谷村(T):おめでとうございます! こちらこそよろしくお願いします。

去年からあっという間に年が明けてしまいました。お互い年を取ってくると月日の流れが早いものですね。

中白(N):あけましておめでとうございます。旧年中はお二人にはいつもながらお世話になり、ありがとうございました。今年も去年と同様よろしくお願いいたします。

M:昨年、私は久しぶりのインドをたんのうしましたが、先生方は鹿児島でのトレーニングコースが始まって、遠距離通勤はたいへんでしょう。

T:いえいえ、皆さんが熱心に取り組んでくださるので疲れは感じません。新幹線も快適だし、会場が駅のすぐ近くで時間を有効に使えています。

N:ほんとうです! 会場をとてもきれいに整えていただいていることに感謝しています。

M:それは2年目がまた楽しみですね。それにしても、イスラエルへ行く機会がないことは少し寂しいことでしたね。

T:そうですね。やはり寂しいです。いろんな意味で何か気持ちの張りというか支えがなくなってしまったような気分です。

M:え、そこまで…

T:個人的に言うと、毎年自分自身の成長を彼女に見てもらうこと、それがわかってもらえることがひとつの心の張りになっていたような気がします。当たり前のように母親の手を借りて歩いているヨチヨチ歩きの子供が突然手を放されて、どうやって歩こうかと戸惑っているようなところがあります。でもこれはもうそろそろ誰の力も借りず、他を見て迷うことなく、お前の思うとおりに探求していってはどうかという天からの思し召しだと思うことにしました。

N:私も毎年リカ先生のレッスンを受けて、確認や理解できてないところをクリアーにすることが、一番の楽しみだったので、とても寂しいです。でも、イスラエルに行かなかった去年が一番明確になった年でもあります。リカ先生にチェックしてもらえないという必死な気持ちからかもしれません。

M:どこかに甘えのような、リカさんに依存する感じがあったのかもしれませんね。

N:そうですね。ところで会長、インドはいかがでしたか?

T:そうそう、私もインドは長い間ご無沙汰ですが、会長も久しぶりではなかったですか?

昔とはずいぶん変わっていたでしょうね。

M:変わったように見えるところは物質的、外面的な次元なのでしょうね。それは日本も同じようなもので、なにかが便利になったとか、きれいになったとか。

ヨガも、インドでも健康法として再評価されてブームが来ているらしくて。でも、そんな表面を一枚はがすと変わらないままだなあ、と感じることが多かったです。

N:最近ではインドと言えばIT大国と聞きます。だから随分変わったのかなぁと思ってました。でもそれは会長がおっしゃるように表面的なところなのかもしれませんね。カースト制度は法的には禁止されたようですが、本当のところはまだまだ差別が根強く残っていると聞きました。その辺はどのような印象を持たれましたか?

M:たとえばそのITも、インドの伝統文化に分析的でデジタルな傾向があることが現代のITにマッチしたわけです。ゼロの概念がなくてはデジタル信号は生まれず、空の概念がなくてはゼロもないというわけで。外面的には変化、進化したように見えて、内的な質、以前話題になったクオリアのようなものは千年二千年たっても同じものが流れているんじゃないでしょうか。カースト制度にIT関連の規定がないおかげで有能な人材が比較的自由に集まっているという、ちょっと笑える面もあるようですが。

N:ゼロや空の概念。うーん?ちょっと私には難しいお話ですが、要するに表面は移ろい、変わっているけれど、いつも変わらない本質的なものがその根底に流れているということですね。それとダライラマが居られるダラムサラにも行かれたそうですね。

M:ダラムサラは理想郷のようなところかと想像していましたが、決して住みよいところとは思えませんでした。雨季だったこともあるでしょうけれど、湿気と寒さには参りましたし、街が急斜面に貼り付いていて、農業はもちろんこれといった産業もなさそう。チベットの人たちが帰りたいと願うのも当然でしょう。国を失うことのつらさを垣間見た気がします。

研修としてはチベット医学暦法学校を訪問できたことが、東洋医学を理解する上でとてもよかったです。健康法が天文学と占星術とセットで、よく言われる「人体は小宇宙」という概念が生きていました。

T:物質的、外面的、表面的には変わったけれど、内側では変わっていない。会長が学んでこられたチベット医学も昔から変わらない原理を学ぶ場所なんでしょうね。

そのことで私が想起することがあります。去年の暮れにインナームーヴでも紹介した野口三千三さんの本を読み直して“表と裏”ということを考えています。先ほど順子さんがおっしゃったように表は移り変わっていくもの、裏は変わらないものとして考えてみると面白い。去年の4月に出していただいた本は『内的運動学とは(?)』でした。

N:会長がその名付け親でしたよね。

M:そうでしたね。まあ“インナー・ムーヴ”の直訳ですから、英司先生のオリジナルです。

T:だからこの本も「内的」ですから、内側のことでそれは「裏」についての話だったんだということを改めて思ったんです。

M:「裏」というと、どうしても影、闇、ネガと続いて、否定的なイメージになりがち。表裏一体、陰陽合一といっても、まず明るいほうしか意識されないですね。

T:そうですよね。私の思いつくマイナスイメージは、「裏口入学」、「裏取引」、「裏のある人」などです。

M:「裏運動学」…、怪しい。(笑)

N:もちろん私も野口さんの本は読んでいるので知っているのですが、確認のために聞きますが谷村先生のおっしゃっている「裏」はそういう意味ではないんでしょう?

T:そうですね。この裏という漢字の意味合いには、「人目に触れないで裏に隠されている場所」という意味があるようです。そしてその裏に隠れている場所には何か悪ことがおかれているというイメージからそういうネガティヴな意味合いになって、一般化してきたように思います。しかしそれは派生義で、本来の意味はちょっと違うということを私が知ったのはこの野口さんの本からなのです。その本によると裏という漢字は「衣」という漢字を上と下に分けて、その間に「里」という漢字を入れて、それを大切に包み込んで護っていることを表した字なのだそうです。

N:そうでした、そうでした。それでその「里」という漢字の意味も面白かったですね。

T:そうなんです。この里という意味は、「人間が生きていくことにとって文字通りの基盤」あるいは「神様が祭られている場所」という意味があるのです。つまり私たち人間にとってとても大切なものが置かれている場所。それが本来の裏の意味だったのです。

M:天皇がおられる一角を「内裏(だいり)」と呼ぶワケですね。

N:ひな祭りの歌に出てくる「おだいりさーまとおひなさまふたり並んで・・・」の内裏ですね。

T:「内」という漢字と「裏」という漢字が並んで出てきていますね。面白いですね。

M:まったくです。日本人の感覚では「奥の院」、「奥義」や「奥伝」の「奥」に通じるのでしょうね。それで亭主は奥様に逆らえないわけで。(笑)

N:そうです。家族にとって奥様は偉くて、大切な人だからです。世の旦那様方はもっとこの裏の働きの重要性を理解すべきです。(笑)

M:え~話題を戻して(笑)、体や運動でも「裏」が大事というわけですか。

T:そうなんです! 私は話をそこにもっていきたいのですが、その前にこれまでに出てきた「裏」、「内」、「奥」の漢字の意味を再確認しておきたいと思います。

1.「裏」は「人目にふれない面」、「隠されている事柄」、「逆さま・反対」、「おさまる、整う、安定する」です。

2.「内」は「物事の裏に向いた方」、「外から見えない部分」、「外部のものを交えないこと」、「宮中」、「大事にする」。

3.「奥」は「表面に現れない深い場所」、「簡単に知ることができない深い意味」、

「芸や学問をきわめて得られるもの」

と辞書にありました。

そして野口さんの本によると、和語の「うら」は「心、内、奥、底、深、後、左、基盤、土台、本質、根源…」の意が原義であり、漢字の「裏」と全く同じであると書かれてありました。ですからどうも上にあげた3つの漢字は同根のようですね。

M:共通して「道教」のにおいがプンプンします。まず運動を筋肉レベルで整理しておきたいのですが、三角筋や大胸筋、腹直筋などの大きな筋肉と、姿勢筋とも呼ばれる大腰筋・腸骨筋なんかの、いわゆるインナーマッスルという区分は定着しています。これはあくまで解剖学やスポーツ医学、運動学という測定可能な学問での分類法であって、インナーと言ってもアウターと比較しての筋肉論に違いなく、それも基本的に“強化”が目的になるわけです。『内的運動学』で扱っているのは、その筋肉を直接どう動かし、どう鍛えるかというものではありません。

N:「道教」については私にはよくわかりませんが、インナーマッスルに関してはまさにその通りですね。私たちが言っているインナーとはインナーマッスルのインナーではないですね。

T:インナーマッスルという言葉を調べてみるとカタカナ英語で正しくはディープマッスルというらしく日本語では深層筋というらしいですね。だから結局は筋肉レベルの話ですね。

そういう誤解を招かないためにも、私はこの裏という言葉を使ってみたいのです。そして裏の反対語は表です。よく考えてみるとすべての物事には裏の世界と表の世界があり、それらが組み合わさってひとつの世界が成立していると思うのです。したがってからだの世界にも裏の世界と表の世界があると考えてみてはどうかと思ったのです。そしてからだに関する表の世界が、先ほど会長が話された筋肉論や骨格論で、それは測定可能、視覚化可能な世界と言っていいんじゃないでしょうか。

M:ロボット工学で扱える範囲ですね。歩くのがやっとだったアシモ君もずいぶんなめらかで高度な動きができるようになってきたと話題ですが、なにができるか、ホワット(what)が表の世界のテーマ。

N:そして『内的運動学』は裏の世界というわけですね。

M:どのように、というハウ(how)が大事。

N:アレクサンダー・テクニーク(以下ATと略)ではよく言われる言葉ですね。このことに関連して、リカさんがよくおっしゃっていたことを思い出します。ATのワークにおいてプロシージャーという形をやるのですが、その代表的なものはチェアーワークで椅子を利用して立ったり座ったりの動きをするのです。これは空間上をからだが移動するということですね。だから目で見てわかる動きです。目で見てわかるからだの動きは表の世界と言えるような気がします。そしてリカさんは、「空間上での動き、それだけだったら面白くない! 表面的な動きの裏には内側の働きがある」とよくおっしゃっていました。だから谷村先生のお話を聞いていてからだの動きにも表の世界と裏の世界があるなあと思ったのです。

T:そうですね。ATを学ぶにおいてこのことが混同されていて誤解が生まれ、理解が難しくなっているように思います。

M:言葉は表の世界のツールなので、裏のことをなんとか人に伝えよう、“表現”しようとしても無理がある。文字通り、表に現せないのが裏なわけですから。

T:F.M.アレクサンダーの直弟子だったパトリック・マクドナルドの著書「AS I SEE IT」の最初に、「ATは決して言葉で理解できるものではない」とおっしゃっています。その一方で、経験している人にとってはこの書が何らかの役に立つかもしれないともおっしゃっています。つまり、経験を土台にした言葉は裏の世界でもひとつの大切なツールになるということだと思います。

N:私は経験のないものを言葉だけで想像したり、理解することが苦手な人間なので、マクドナルドさんがおっしゃっていることはよく理解できます。

T:観念的ではないということですね。この“観念的”という言葉の反対語が“具体的”です。この言葉に関してこれも野口さんがおっしゃっていたことなのですが、「具体」とは、中国では「欠けたところがなく、全体の形が完全にそなわっていること」であるが、日本の「具体的」は哲学用語として「抽象的・観念的」の対義語として造語され、「物事の姿・形・内容が、はっきり感覚できて分かり易いこと」である。と。

M:ちょっと混乱しそうですが、いま話題にしている表の世界が具体的で、裏の世界が観念的ということですか?

表は見えること、分析できること、表現できること。そして裏は見えない、分析できない、言葉では表現できないこと、でしたね。

T:確かにチョット混乱してしまいそうな話をしてしまいました。話を整理すると、そういうことではなく、表の世界では観念で説明できないといけない世界だと思うのです。そして説明のできないものは存在しないものとして扱われてしまいます。

M:科学ではとにかく数値化して“証明”せよ、ときますね。

T:でも説明のできるものがすべてだと言えない。そういう意味では全体的でないと言えると思うのです。だから裏の世界も考慮に入れる必要がある。そして表も裏も考慮に入れた状態が具体的ということではないでしょうか。

M:科学が追いついていないからまだ分からない暗黒物質の正体や難病の治療法のような意味ではなく、言語や数字では表せない…。

N:私たちがやっているATのワークはまさにそういう作業のような気がします。

T:そうですね。ただ、ATを学ぶ最初の段階ではほとんどの人はからだの裏の働きの重要性について知らないわけです。先ほどの話でいうと、筋肉や骨格論でしかからだを考えてこなかったわけですから。つまり表の世界でのみからだを見てきたわけです。それ以外の働きについて知らないので、それも当然と言えば当然ですね。

N:ATのワークにおいてまず、この裏の働きの重要性を経験と言葉を通して理解してもらう必要がありますね。

T:具体的に、ですね。

N:そして野口さんの本を読んでいて、彼の中ではおそらく外側の動きではなく内的な動きをからだの探求の中で実感されて、その重要性を発見されたのではないかと思うのです。昔もこの本を読んだのですが、改めて読み返してみるとATを理解する助けになる重要なことが沢山書かれてると思います。

T:ホント!私もそう思います。私にとってはF.M.アレクサンダーに負けないくらいの天才だと言ってもいいくらいです。日本にもからだについてこんな素晴らしいとらえ方をしている人がいたことを日本人として誇りに思います。

M:あの『原初生命体としての人間』は衝撃的でした。1972年の出版だけど今も新鮮。

ほかには『野口体操・からだに貞く』と『野口体操・重さに貞く』が書店にあります。ちなみに野口晴哉(はるちか)さんの野口整体とは別のものだということはお断りしておきましょう。彼も天才ですが。

T:話が少し変わるかもしれませんが、この裏というものを私たち日本人はとても大切なものだとどこかで感じているような気がします。だからこそ最初に話した“裏”という漢字に重要な意味を持たせたのだと思うのです。

M:特にアメリカ人には分かりにくいところでしょうねぇ。

N:特にアメリカ人というわけではなくて、外国人全般にと言ってもいいような気がします。

T:そうですね。そう考えれば、これは日本人特有のものだと言えるかもしれませんね。うまく言えないのですが、裏は表を支えるものだという直感的なものが私たち日本人にはあると思うのです。そしてそれでも裏は裏であって表には出てこないものだという直感的なものもあるのです。だから裏が重要だからといって表に現れること、つまり“表現する”ことをあまり好まないところがあるのです。そういう私たちの精神構造が外国の人たちにはちょっと理解しがたいのでしょうね。

N:そして私たち日本人自身もその精神構造を外国の人たちにうまく説明できないでいます。例えば谷村先生がおっしゃったように、私たちは裏を裏として表に出すことに抵抗があるのですが、そういう態度を外国の人たちは単にシャイだとしか理解していないようですね。でもそういう判断に対して何も言えないでいるのが私たちのような気がします。

T:確かに。日本人から見れば、あまり話さないのは、おとなしく、シャイだからだけではないですよね。言わない美学というか裏を裏として大切にしまっておくという無意識の気持ちがあるような気がします。

M:流行語大賞なんかとっちゃった「忖度(そんたく)」とかね。京都の芸妓さんの「おおきに~」は直訳したら「Thank you」だけど、実は「No Thank you」だなんて、お手上げでしょう。口に出さない“本音”を“腹芸”で伝える感覚は上等だと思うけれど、あくまで日本の基準ですね。

T:われわれ日本人にしかわからない。

M:日本は弥生時代になっていろいろな民族が流れ込んでは混血を繰り返してきたことが遺伝子の分析で分かっているんです。異なる言葉、文化、風習を互いに尊重しつつ融合させるためには相手を傷つけたり怒らせないよう、慎重さを身につけたんだと考えています。近代になっても天皇であれ幕府や政府であれ、なるべく強制は避けたので、この小さい国にいろんな方言が残っているわけ。その感覚が磨かれたために、すべての表には裏があることをキャッチできるんじゃないかな。

N:なるほど~。そういう歴史的背景があったんですね。

T:そういう経験を通して私たち日本人は表と裏の重要性を理解してきたのでしょうね。この大切な知恵が欧米化の波の中で消えようとしているような気がします。そんなわけで私たちが大切に育んできたこの表と裏という知恵を改めて考えてみたかったのです。

N:そして、私たちはからだを探求していますから、からだの中の表と裏ということを改めて考えているんですね。

T:ここで断っておきますが、私は何も裏の方が大事で表はどうでもいい、というつもりはないのです。むしろ表も大事だと思っています。日本のことわざに「言わぬが花」とか能の『花伝書』には「秘すれば花なり」という格言があります。表はこの花のようなものだと思うのです。そして“秘すれば”とか“言わぬが”というところが裏なのです。だから立派な花が咲くためにはこの裏が大切なのだという格言だと思うのです。

N:美しく咲いた花もいいものです。ただその裏にそれを支える働きがあることを忘れないでほしいですね。

M:せっかくキャッチできる感覚をもっているんですからね。去年から役員会で、協会のアサナ昇段が審査に合格するためのものになっていて、ともかく合格点にたどりついたらOK、で、おしまいっていうのはだめなんじゃないかと、いまさらながら話し合っているんです。まさにポーズとしての形が表の花で、形ができるように練習するわけですけれど、そこから質というか、アサナでどんな“内的運動”が起こっているかを感じることを大事にしたいと思います。

T:いいですねー。ヨガ協会が裏の大切さをキャッチできる感覚を持った団体として独自性を持つということは素晴らしいと思います。

M:そのことが少しでも日本のヨガのレベルアップにつながればいいと思っています。

T:最後に裏を大切に育てていこうとする態度にぴったりと私には思えるものが野口さんの本に書かれてあります。それをご紹介したいと思います。それは「そっと」という簡潔な言葉です。そこには「少し、ちょっと、わずか、ひそかに、静かに、こっそりと、内内に、・・・」という語感があり、「大げさに大騒ぎしない、堅く重く窮屈でない、意識的時間は短く物理的エネルギー量は小さい感じ、それでいて、感覚的には繊細正確、存在感は明瞭、質的には豊かなのだ」とおっしゃっています。私はこの「そっと」という語感に何か安心感と清涼感を感じます。この言葉が私たち日本人の意識の奥底で息づいているからではないかと思うのです。


N:今年は、そっと奥ゆかしいAT教師でいようと思います。(笑)

T:そのお言葉、会長としかと承りました。(笑)

日本アレクサンダー・テクニーク研究会