2017 新春鼎談

T:谷村英司 N:中白順子 M:松嶌 徹


松嶌(M):明けましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。

谷村(T):おめでとうございます! こちらこそよろしくお願いします。

中白(N):あけましておめでとうございます。旧年中はお二人にはいつもながら大変お世話になり、ありがとうございました。今年も去年と同様よろしくお願いいたします。

M:暮れには研究会で第3期の卒業を迎えられました。おめでとうございます。ほんとうに地道に継続しておられますね。

T:奈良のホテルでの卒業式、皆さん遠くから交通費も大変だったとは思うのですが、卒業生の方々までお祝いに駆けつけてくれました。おかげさまで素敵な卒業式になりました。

N:それに、リカさんや松嶌会長からご祝辞、東京の卒業生の皆さんから祝電もいただきました。更に会長からは卒業生のためにきれいなお花までいただいて、ありがとうございました。

T:いい祝辞を頂きましたね。おかげさまで卒業式が締まりました。ありがとうございました。せっかくですからここで紹介させていただきます。


まずは会長の祝辞から:

日本アレクサンダー・テクニーク研究会

第3期・卒業生の皆様

この度のトレーニング・コース修了、本当におめでとうございます。

長きにわたる研鑽において、ひとつの大きな節目のときを迎えられたことに敬意を表しますとともに、これからの教師としてのご活躍を期待申し上げます。

いま福祉や医療、さらには教育、スポーツの世界でヨガに注目が集まり、様々に新しいアプローチが生まれては消えています。

そんななかで国際ヨガ協会が動ずることなくまっすぐ前進できているのも、谷村英司先生を始めとするアレクサンダー・テクニーク教師の先生方が、真理が外にではなくそれぞれの内にこそあることを確信され、みずから証明してくださっているおかげです。

これからもヨガ指導者、生徒ともに先生方のご指導を受けながら、ダイレクションが活きているヨガを磨き続けたく、ご指導いただけますようお願い申し上げて、お祝いの言葉とさせていただきます。

2016年11月20日

NPO法人 国際ヨガ協会

会長 松嶌 徹


M:ご一緒できず、残念でしたけれど。国際ヨガ協会の特徴のひとつに、伝統とか実績、組織の大きさのなかで自己満足に陥らずに、いつも「これでいいのか」、「ほかに方法はないのか」と自問できていることがあると思っています。創始者もそうでしたけれど、アサナという型についても意識レベルでも考え続けていられるのも、アレクサンダー・テクニークという“自己の使い方”を極めようという視点のおかげです。

T:ヨガはヨガであるべきだとは思うのですが、その中に自己の使い方というATの捉え方を導入しようという会長の試みなのですね。ヨガの中にこのことを浸透させていくことは本当に難しく、時間のかかるチャレンジですね。

M:まあ、ヨガは生活のすべてだと思えば、生活の質~クオリティ・オブ・ライフを高めるためのATから学ぶというのは自然な流れですけどね。もちろん生徒さんの習慣化した使い方やらそれによって固定化した歪みがあるので、使いながらの修正というのは困難です。できれば使う前に正しい自分の癖を確かめ、意識的に正しく使いこなせるようになってからのほうがいいでしょうけど、それでもヨガのアサナ自体にそれなりの効果はあるので、体を使いたくて教室に来られた生徒さんと一緒に、よりよく使うことを学び続けたいと思います。だから指導者自身が改めて正しい自己の使い方を学ぶことは無条件にお勧めしたいことです。

T:私も同感です。


そしてリカさんの祝辞です:

日本アレクサンダー・テクニーク研究会

卒業生の皆さん

いかがお過ごしでしょうか?

あなたとご家族が元気でおられることを願っています。

ここイスラエルは、今は雨季の秋といってもいいのですが、まだ雨が降らずに乾いています。どうやら今年はとても乾燥した年になりそうです。

この度、皆さんは新しくエイジさんのATスクールを卒業され、教師資格を取得なさるのですね。皆さんにとって、とても重要な節目であり、生涯忘れることのない一日となることでしょう。

皆さんを祝福し、個人的にもAT教師としても、お幸せとご成功を心よりお祈りしています。

皆さんは世界最高のアレクサンダー・テクニーク・スクールの一つで学びを受けられたのですから、ATを職業とするにふさわしいと感じ、教師として自信を持つに値します

代表のエイジさん、そしてスクールの他の教師の皆さんにも敬意を表します。

お元気でご活躍ください。

敬具

リカ Rivka Cohen


T:世界最高のスクールのひとつなんてちょっと褒め過ぎのような気がしますが、リカさんからこのような言葉を頂くことは本当にありがたいことだと思っています。彼女の言葉を汚すことなく今後もワークの研鑽を続けていきたいと思います。

N:リカ先生に世界最高のスクールと言われると、恥じないように更に学ばなんでいかなければと思います。私からするとやはり、リカ先生のレッスンが世界最高のレッスンだと思います。

M:世界中のATスクールでは大事なところ、ファンダメンタルズっていうんですか、土台がおろそかになりつつあって、目につく枝葉ばかりのスクールが増えているとリカ先生が嘆いておられましたね。

T:他の人たちを批判することは私の本意ではありませんが、私なりに世界を見ていて確かにそれは感じます。

M:難しいことを多くの人に分かりやすく伝えたい、親しんでほしいという動機はいいのだけれど、それが案外うまくいっちゃうと、どんどんそれていきがち。ヨガの歴史でも同じ誘惑というか落とし穴が常にあるので気を使います。

それにしてもリカ先生もお元気そうでよかった。あの鋭い視線を思い出します。私と一緒で近ごろは少し物忘れが激しくなられたとうかがいましたが、ATのレッスンになるとまったく衰えを感じさせないそうですね。

N:とても正確に方向づけされ、しっかりと伝わってきますね。

T:そうですね。ダイレクションは正確伝わってくるのを感じます。身に沁みついているというか、日本舞踊の人間国宝級の名人もいったん踊りだすととてもその年齢には見えないというのがあるでしょう。そういうものと同じような気がします。だからまだまだ彼女から学べるものがあると思います。

M:ほんとうに高い山は近づくほどに頂上がどんどん遠ざかっていく、その感じでしょう。

T:この道がわかってくればくるほど、遠い道であることがわかってきます。3年のトレーニングコースが終わればATのすべてがわかると思っているのはまだまだこの道の本道がわかっていないということです。だから順子さんも年に2回も師匠のところに通っている。

N:毎回リカ先生のレッスンを受けるたびに、今まで学んだことを確認できます。理解していたことや苦手なことも再確認すると、同じ景色なのに細かく見えてきたり、できないと思っていたことがクリアーにできたりします。私にはまだまだリカ先生のレッスンが必要です! でも、リカ先生もお年なので、いつまでレッスンされるか分かりませんので年に2回行っています。

M:リカ先生もまた、その情熱に応えてお元気を湧き起こされていることでしょう。それほどの高い山だということは、今回の卒業式は“ほんとうの旅”のスタート、「お楽しみはこれからだ!」というところですね。

N:卒業してからが本当の学びの始まりだと思います。トレーニングコースでは受け身でレッスンを受ける方が多いと思います。卒業してから能動的に学んで行くことになると思います。

T:そうですね。本当のATの楽しみや面白みがわかってくるのはこれからです。トレーニングコースでは様々な体験を通して旅に必要なものは何かを学んできたわけです。そしてこれからは、その学んできたものをバックパックに詰めこんで、自分の足で旅を始めるわけです。結局、F.M.アレクサンダーがした旅を自分自身の足で歩いていくしかないのです。

卒業式の時にも少し話させてもらったのですが、誤解を恐れずあえて言うなら、彼が発見した様々のことはそれほど重要なことではないような気がしているんです。それよりももっと大切なことが彼が歩んだプロセスにあるように思うのです。

N:それは、どう言う意味ですか? プロセスが、ですか?

T:英語の疑問詞にはWhat?の何、Whay?のなぜ、How?の如何にがありますね。このうち「何?」よりも、「なぜ?」そして「如何に?」の方が大切なことのように思うのです。私の若い頃を思い出してみると、本を読み漁り、偉い人の話を聞き、何を知りたかったかというと、彼らが何を発見し、何を考え、何をしたかを知りたがっていたように思います。つまりWhatですよね。

M:たいていは何が得られ、どんな人になれますか?
っていう理想像を追い求めますね。

T:しかしそれは結果なのです。何の結果かというと、その前に「なぜこんな問題が生じるのか?」と、その“なぜ”という問いの答えを見つけるためには「如何にその問題に取り組むか?」という問いがあったはずなのです。偉い人の話には必ずこのことが出てきますし、そのことが非常に大切なことだと教えてくれています。しかし若かった私はそんなことには全然興味を持ってなくて、この「何」だけを知識に入れようとしていたように思います。F.M.アレクサンダーの著書『自己の使い方』などはその具体的なよい例だと思います。

ご存知のように声が出ないという問題に遭遇しました。そしてその問題に対して、「なぜこの問題が生じたのか?」を問い、その解決のために「如何に取り組んだか?」を、実体験を通して話してくれているわけです。そしてその結果、Whatを見出したのです。

N:先生の言うwhat何?が“結果”という意味なら納得です! つまり普通は手間を省いて“良いとこ取り”。結果だけゲットしたくなるんですよね。

T:ところが大抵の偉い人の話は、what何?はあまり書かれていないんですよね。ちらっとしか出てこない。だから若い頃はもうちょっとそこのところを詳しく教えてほしいと感じていたものです。「あとは自分で見つけろ」ということだったんですが。

M:そこに待っているはずの答え、whatに向けて、どれだけ無駄足を踏まずに早くたどり着けるかっていうのが受験対策的な学校の勉強だとすれば、真逆の構図ですね。

N:そうですよね。親や指導者は自分の失敗の経験をとおして、子供や後輩、次の世代には無駄なく前に進んでほしいと思いますものね! その気持ちから正しいことを一番に指導しますよね。つまり失敗というプロセスを省く。

M:それにしても、ゴールしたのかと思いきや「じゃあ、そろそろ出発しようか」というのはまた、すごい卒業式ですねえ。それもまた世間的には真逆のような。

T:そうなんですよね。ATにおいてはほとんどすべてが世間の常識とは真逆なんですよ。だからそれほど多くの人が賛同するものではないのかもしれないと今ごろになってやっと気づき始めました。(笑) それと同時に、それでいいんだとも思い始めています。わかる人が、あるいはそういう捉え方が面白いと思う人たちが続けていけばいいんだと。

M:続ける根気が試されて、みんなが最後まで、まあ最後とい う地点があればの話ですが、辿りつける保証はないということですね。ただ、みんなのウケを狙いにいく“大衆迎合主義”、アメリカ大統領選で話題になったポピュリズムはおおいに問題があるにしても、むやみに敷居を高くする“エリート主義”にもならないようにしたいというところはヨガも同じです。分かってもらえるよう工夫しつつ本質を外さず、押し付けも突き放しもしないという、微妙なバランスですね。リカ先生に、そしてエルサレム教室のシモエル先生からも私が感じた、オープンだけど妥協のない態度が手本のように思えます。

T:お二人とも本当のことは外さないし、誤魔化さないし、妥協しない。でも生徒が本当のことを理解することを望むなら、時間を惜しまず根気よく指導してくださいます。

M:望みに応えてくださる…。「求めよ、さらば与えられん」という有名な一節を思い出します。それはまた「パンを欲しがる子に石を与えるだろうか」って続くように、教師から伝えられるのは生徒の望む以上でも以下でもないわけです。教師も自信がついてくるとエゴと短気から「私の言うとおりにすればいいのだ」ってなりがち。すると生徒も受け身の態度が染みついて、自分から求めることがなくなっていく。ほんとうに気をつけなくてはいけないし、その点でもAT研究会の先生方は私たちの手本になってくださっています。

N:いえいえ、AT教師も生徒さんが良くなって欲しいという気持ちから、教師のエゴで指導してしまいがちと思います。

T:“教師のエゴと短気”…面白い表現が出てきましたね。それを“親のエゴと短気”あるいは“観念のエゴと短気”を置き換えてみることもできるかもしれないですね。何が言いたいのかというと、教師、親、観念という表向きの立場というか姿の背後にエゴと短気が隠れているのかもしれないと疑ってみてもいいのかもしれないと思ったのです。というのもひょっとしてその背景にエゴと短気が働いている場合、そのことに気づいていないかもしれないからです。

M:短気は表に現れやすいけれど、エゴは巧妙ですからねぇ。「気づいています」と言う、自分のほんとうの姿に気づかない。

N:でも案外、生徒や子供は教師や親のエゴや短気からの言動であることに気づいていますよね! しかし、教師や親はそれに気づいていない。

T:なぜ気づけないかと考えてみると、教師は生徒に“正しいことを教えている”、親は子供に“正しいことをしつけている”、観念は自分自身に“正しいことを強制する”という自負みたいなものが無意識にあります。この“正しいこと”が大義名分となって背景にエゴや短気があることが見えなくなっているのかもしれないと思ったのです。われわれ人間も最も愚かな行為として戦争があると思うのですが、これなんかそういったことの結果のような気がします。聖戦なんて言葉が成立するんですから。

M:“国家のエゴと短気”の戦争…。まさしく、その“正しいこと”がほんとうに正しいのかどうか、じゅうぶんに吟味しないで短気が力を発揮して、結論づけちゃう。「私は正しい」のだって。そうするとエゴが、正しいと主張するための状況証拠を集めていくいっぽうで都合の悪いことは排除していくので、年齢、経験を重ねるほど修正はできなくなっていく。そんなゴーマンな教師や親のような存在の観念が自分のなかに居座ってしまうことって、とても怖いことですね。

N:でもそれらは、もともとは正しいことだったし、そのお陰で良い経験として記憶に残っている。そして良い経験だったからこそそれが正しいこととして生徒や子供にあるいは自分自身に良い経験をしてもらいたいという願望からついついそうなってしまう。

T:そうなんですよね。じゅうぶんに吟味するためには、公平で慎重な意識でいなければならないのですが、そういう願望があるときには、それができる意識状態ではない。しかもそういう状態では短気で、エゴが自由に暴れまわることができる自分の意識の状態に気づけないような気がします。このことに気づいていないとどうなるかというと、怒るのは当然と感じるか、相手が私を怒らせているという感じなのです。すべてが相手や状況のせいに感じてしまうのです。これが会長がおっしゃっている自己弁護の形になっていき自分自身を修正することが不可能になります。 われわれ人間は失敗するものです。それは成長するプロセスで不可欠といってもいいと思います。だからこそ間違いに気づき、修正できる意識状態がとても大切となってくるように思うのです。

実はアレクサンダーが言ったエンドゲイニング(目的至上主義)というのもこの辺の意識状態のことだと言ってもいいのではないかと思うのです。

M:仕事をてきぱきと片付ける、成果をあげるという意味では、エンドゲイナーはそうではない人と比べて高く評価されますけれど、だとすれば私たちはエゴが短気を起こすことを正当化している社会に生きているっていうことになります。それが問題となるのはなぜなんでしょう。

T:おっしゃるようにエンドゲイニングは、仕事においては成果を上げることができるかもしれないし、社会的には評価されるようになるかもしれません。そういう側面では確かに良いことなのかもしれません。それを“外面的には”という言い方もできる。ところがわれわれ一人一人の内面では実はいろんな問題が進行しつつあるように思います。短気で、イライラし、怒っており、攻撃的になっているように感じます。親が子供に対して怒っているように、教師が生徒に対して苛立っているように、自分自身が自分自身に対して焦っているように。ところが成果を上げ、社会的に評価を得ること、あるいは利益を得ることによって、内面の問題は相殺されてしまい、忘れ去られてしまう。それが我々先進国の問題のような気がします。後進国と言われている国々の方が、貧しいかもしれませんが、内面においてはゆとりがあるように思うのです。

M:ゆとりというか、頑張っているにしても自分のペースを奪われて消耗していないって感じ。バブル経済の頃に私も貧しい国に行って現地の人たちの屈託のない温かさや子どもたちのキラキラした瞳にショックを受けたものです。多くのボランティアが同じような思いをしているようですね。

エゴは家族やコミュニティーのなかで程よく制御され、追いたてられなければ短気を起こして自分自身を痛め付けることもない。日本もそんな時代があったはずなんですけどね。

T:それで私が思い出すのは、以前“世界一貧しい大統領”で日本にも知られたウルグアイのホセ・ムヒカ大統領の名言のひとつ「われわれは発展ではなく、幸せになるために地球にやってきたのだ」というものです。先ほどの話で言えば、成果を上げること、評価されるようになることにまい進することが、彼が言う“発展”で、彼が言う“幸せ”というのはそういうことではなく、内面においてということのように思います。我々先進国の人間は、この発展することが幸せと勘違いし、ひたすら発展することにまい進してきた。これらはイコールではないどころかわれわれ一人一人の、内面はドンドン枯渇していきます。

M:機械化や合理化によって時間やお金に余裕ができたのは間違いないのですけれどね。30年前までは土曜も仕事だったし、戦前の日本人は盆と正月しか休まないのも珍しくはなかったんですから。日本中がこの頃問題にされている“ブラック”状態。いま普通の人は年間120日以上、2日に1日の休日があるはず。これは発展のおかげだと主張できるでしょう。ということは、発展と幸福はイコールではない、といって相容れないものでもなく、別のもの、それぞれ独立しているものだということですね。

T:そうですね。ということは幸福でありながら発展することも可能だということですね。

N:ただしそれはエンドゲイニングという手段で得た発展ではないと思います。つまりテキパキと仕事ができること、発展することとゲンドゲイニングは必ずしもイコールではないと思うのです。私の経験では、昔はバリバリのエンドゲイナーでした。そして仕事がテキパキとできているつもりでした。ところが実際は今と比べると仕事は遅いし、効率も悪かったように思います。だから仕事が、遅くてもエンドゲイニング、早くてもエンドゲイニング、発展していようがいまいがエンドゲイニングというものがあると思うのです。

T:その通り! そこでもうひとつ彼の名言を思い出します。「貧しいこととは、ものを少ししか持っていないことではなく、いつも不足感を感じ、際限なくものを求め続けることだ。」これは発展イコール幸福であるという幻想から起ってくるわかりやすい現象だと思うのですが、問題は、発展するかしないかではなくて、われわれの内面のエンドゲイニング的意識状態だと思うのです。この意識状態が我々の内面で際限のない不足感を生み出しているからです。そのことにもうそろそろ気づいていく必要があるように思います。

M:そうおっしゃるムヒカさんを日本人が絶賛するというのは、物質的な豊かさと内面的な豊かさの違いをいま、多くの日本人が改めて実感しているんじゃないでしょうか。

だとして話を進めれば、内面で枯渇、貧しさをもたらすエンドゲイニングの態度は、アレクサンダー・テクニークにおいて、肉体的にどんな影響を及ぼし、またそれをワークでどのように解決しようとされているんでしょうか。解決しようとすることもエンドゲイニングだと言われそうですが、そこは片目をつぶっていただいて。

T:ATの場合は、先ほどまで話していた社会の話のようにややこしくありません。エンドゲイニングはからだにおいて筋肉によって背中を短く狭くし、からだ全体を押し下げるという習慣的反応パターンを起こし、強化してしまうのです。

M:誰でも、例外なく…。

T:そう。そのためにプライマリー・コンロトールから起ってくる身体的協調作用、つまり首を自由にさせると頭は前に上に、背中は上下に長くなり、左右に拡がり、両足は床に対抗することがこの反応パターンによって邪魔されてしまうのです。つまりエンドゲイニング的態度では、ATの原理を働かせることができないし、そのことが正確に体得できないわけです。だからATではこのエンドゲイニング的態度から自由になることがとても大切な課題のひとつになるわけです。

M:心の態度を改めようとするのではなく、体の使い方に現れた現象をつかまえることが心のあり方を変えるっていうわけですね。個々に違う観念的な価値観を追いかけまわさなくても、肉体的な不具合は“典型的パターン”として顕れる。それをやめればいい、というのは確かにシンプルですね。

T:ところが社会の場合はエンドゲイニング意識であることの方が発展できるのです。しかも“発展イコール幸福”という公式が常識化してしまった。ちょっとややこしい状態になってしまっている。したがってみんな最初はこの常識からつまり、エンドがイニング的意識を使ってATをゲットしようとします。しかし「それはだめだ!」と言われる、なぜなら先ほど言ったようにそれではATを理解することは絶対にできないからです。

M:手放すのは、そりゃ大変です。食事が終わったら満腹でもスイーツは欠かせない、なんていう習慣は私のエンドゲイニング的態度ですね。

N:私もその習慣にはいつも反省させられています。(笑)

M:これがもたらす結果は発展ではなく糖尿病でしょうけれど。(笑)

T:ATの場合、その結果は活発な、しっかりした身体ではなく、われわれが身に付けてしまった習慣的緊張パターンの奴隷になり、からだが委縮し、ダウンした不活発な身体なのです。

N:結局、エンドゲイニングでは表面的にはいい結果が得られるように見えるのですが、良いことなんて何もないということのような気がします。そこで考え出されたのが“インヒビション”(抑制)というものです。

T:そうですね。エンドゲイニング的態度を抑制してことにかかりましょうというわけです。よく調べてみると、F.M.アレクサンダーがこのエンドゲイニングとかインヒビションという概念を言い出したのは、プライマリー・コントロールを発動し、自分自身の中に協調作用があることを発見した後のことなのです。早い話、成功体験の後のことなんです。つまり成功体験がエンドゲイニング的態度を呼び起こすとも言っていいと思います。先代の会長が“初心不忘”と皆によく諭されていたのを思い出しますが、その意味はエンドゲイニングになるなよという意味だったのではないかと今になって思います。

N:でも成功もしていない人でも同じようにエンドゲイニングになるのはどうしてでしょう?

T:そうですね。私もそのことを考えていました。私が思うに、ネットやテレビという情報が簡単に手の入る時代になってくると、偉い人たちの成功体験を疑似体験できるようになるわけです。そうするとそれが自分自身の一種の疑似成功体験になるのではないかと思います。そしてそれを目指そうとする時にエンドゲイニング的意識に襲われてしまう。

N:この習慣とエンドゲイニングの関係は、今度国際ヨガ協会から出版される本にいろいろな側面から書かれていますね。

M:あ、発表しちゃいますね。新しいご本のこと。2月中には完成の見通しで制作中です。「インナームーヴ」と指導者通信に連載されているものをテーマごとに再編したもので、濃い内容ながら読みやすくまとまっていると思います。小さなサイズなので今回はまず第一弾。

N:私もまえがきを書かせていただきましたが、本当に、丁寧にいろいろな側面から書かれていて、ATの原理を理解出来るように解説されていますね。私がトレーニングコース中もこんな本があれば助かったのになぁと思います。

T:これまで書いてきたものを集めてみると膨大な量になっていることに驚きました。「ちりも積もれば山となる」です。さてこれをどうやってまとめていけばいいのか、悪戦苦闘しましたが、何とかまとめることができました。でも一冊の本にはとても収めることができなかったので、まずは第一弾としてF.M.アレクサンダーが発見したプライマリー・コントロールという協調作用と内的な働きについて、そしてそれを邪魔するものとして今回話してきた習慣とエンドゲイニング、そしてそれが身体に及ぼす影響が書かれています。

M:「ちょっと体感してみましょう」というレッスンも織り交ぜられているので、ぜひ体験していただきたいですね。それをすればどうなるというエンドゲイニングではなく、“あれ?”っていう疑問の種が見つけられたら、それをきっかけに“新しいからだ観”が育っていくでしょう。

N:そうなってもらえたら嬉しいですね。

M:その本が出るころ、先生たちはまたイスラエル研修ですね。

T:今年は4月の中旬から2週間ほど行く予定になっています。例年よりも少し遅めで気候ももっと暖かなのでワークばかりではなく地中海で泳ぎたいですね。順子さんはセグウェイ?

N:はーい!私はセグウェイでテルアビブの海岸を散歩するのを楽しみにしています。

それと今年は鹿児島で第4期のトレーニングコースが始まります。私にとっては未知の土地なのですが、この10年間のトレーニングコースの経験を生かして充実したトレーニングにしたいと思っています。

M:人類に普遍的なワークだとはいえ、地域色や集まる人たちの個性で、先生方にとっても新しい気付きが得られるかもしれませんね。

T:そうですね。それこそエンドゲイニングにはならないで発展していきたいですね。きっといいトレーニングコースとなると思います。それではこの辺で。