からだが教える「本当の自分」-しないことを通して-
日本アレクサンダーテクニーク研究会・代表
谷村英司
なぜ瞑想のあとにはからだが軽くなるのだろう?
私は25年ぐらい前に母が仕事としてヨガを教えていたせいもあってヨガを学び始めました。からだを動かすことがもともと好きだったのと、特にやりたいと思う仕事もなかったので結局、母の仕事を手伝うようになり、気が付いたらヨガを教えはじめていました。今思えばとても安易なきっかけでした。
当時はバブル絶頂の時でフィットネスや健康ブームにのり、仕事としては順調だったのですが、私の内面では「インド4000年の歴史あるヨガを教えていると言いながら私のやっていることはストレッチ体操と何ら変わりがないのではないか?もう少しそこに深い意味があるのではないか?」という疑問が膨らんでいきました。そこで本場のインドのアシュラムに行ってみたり、瞑想を習ってみたりしながら、いわゆる精神世界にのめり込み、それと同時に私は俗世間とか肉体というものを軽視するようになっていきました。そのために不安神経症に陥ってしまい、内面的に相当苦しんだこともありました。
そんな苦しい中でも瞑想は個人的に続けていたのですが、あるとき私にとってはとても単純で、新鮮な気づきがやってきました。それは瞑想をやった後は「なぜかからだが軽く、意識が伸び伸びしている」というものでした。それまでは瞑想と言うとご大層なイメージばかりを持ちながらやっていたので、私はこんな単純な事実に気づけなかったのです。特にからだの軽さの違いには驚きました。そして私はこの事実にこだわり始めたのです。直感的にこの事実には私が求めている何かがあると思ったのです。
なぜ、からだに直接働きかけたわけでもないのにからだが軽くなるのだろう?この単純な疑問に明確に答えてくれるものは何だろう? といろんなボディワー クやセラピーを学んでみたりしましたが、生理学的な説明か気とかチャクラ、オーラと言った当時の私にとっては抽象的な概念で私の問いを片付けられてしまって、私の納得いく答えはありませんでした。それで私は「自分自身が出した問いなのだから自分自身で推測し、実験し、答えを見出していくしか結局、私は納得いかないのではないか」という結論を出したのです。
私は何もわからないままこの問いと向き合うことにしました。しばらくの間そうしていると不思議なもので、ある推測が私の頭の中に浮かんできました。それは 「瞑想している間に知らず知らずのうちに意識のあり方が変化し、その結果私の中にある何らかの機能が活性化されて、それが私のからだや精神状態に働きかけたのではないか?」というものでした。もしそうだとすれば、心身相関のキーポイントはこの機能にあるのではないか?瞑想の中のどういう意識のあり方が この機能を活性化するのか? この機能とは何なのか?それは身体的なものだろうか?精神的なものなのだろうか?さまざまな疑問が答えの見つからないまま私の頭の中を駆け巡るようになっていました。
アレクサンダー・テクニークに出会う
そんな中、ある転機が私にやってきました。精華大学の片桐ユズル教授がアレクサンダー・テクニークというワークの教師を外国から招きそのワークショップをするというので参加したのです。その中で私にとって印象的だったのはヘズィーさんという教師との個人レッスンでした。彼は私を椅子の前に立たせ、何もしないでリラックスしているように言いました。すると突然彼はまだ私に触れもしていないのに私が瞑想しているときの例のあの感覚がやってきたのです。そして彼の手が私の首と頭に触れると私のからだ全体にスペースができはじめ私は自然に座る動作に入っていたのでした。私はリモートコントロールされたロボットのように、なんの努力感もなく、気がつくとなぜか立ったり座ったりの動作をしているのです。
何がなんだかわからないまま30分のワークが終わり、その後私が感じたことは、からだが軽く、意識がオープンになり見るものがすべて鮮明だったということです。そしてその感覚は瞑想の後感じたあの軽さ感や意識の明晰さに似ていたのです。いや、このワークの場合、私が瞑想で感じているものよりも何かもっとはっきりした目的と意志をもっているような気がしました。しかもこのワークは、からだに直接働きかけるのではなく、意識の一部である “Thinking”(考える、思う)によって実現するということでした。そんなわけで私はこのワークをもっと深く知ることによって、これまで話してきた 私の問いを解くきっかけになることを直感しました。それと同時に彼はいったい私に何をしたのか知りたい気持ちでいっぱいになりました。そこから私の問いに対する謎解きのためのアレクサンダー・テクニークの長いトレーニングの旅が始まりました。
「しない」というトレーニングから見えてきたこと
トレーニングと言っても最初は教師との個人レッスンで 週に4回を3ヶ月間それを年間2回に分けて受けることでした。そこで徹底的に指摘されたことは、私が「している」ことを「しない」というでした。それは、 外的な筋肉を緊張させることはもちろんのことそれを緩めようとすることさえも指摘され、禁じられました。これには大変とまどいました。時にはどういう態度でこのレッスンを受ければいいのかわけがわからなくなってしまうのでした。私はそのことを知りたいと思ってこのテクニークを学ぼうと決心したのに、知ろうと努力することおも禁じられます。私にはその意図がまったく理解できませんでした。
しかしながら、そうこうしているうちにだんだんとわかってきたことは、私が感じ取ろうとすることも、それがどういうことなのか考えて結論付け、わかろうと することも「している」の範疇に入るのだということでした。レッスン中はそれも「しない」。そのことがわかってくるとなぜかずいぶんレッスンがスムースに受けられるようになり、私の心身の土台が変化してくるのを感じられるようになりました。
何年か経ってこの「しないこと」の意味が私にはっきり見え始めました。ひとつは、私には生きてきた歴史の中で知らず知らずに築き上げてきた「固定した身体 感覚や観念」を持っているということです。そして私はそれを基盤に物事を感じ、判断しているのです。しかし一方でそのことが新しい身体感覚や考えを発見すること、あるいは生まれることを邪魔しているのでした。ですからこの「しないこと」のレッスンは、まず私のこの強固な基盤を崩すこと、あるいはこの基盤から私の心身が自由になることを狙っていたのです。
もうひとつは、私はいつもこの固定した身体感覚や固定観念を基盤にして何かを「していた」ことを、身をもって気づくためのレッスンだったのです。つまり最初のうち私は「している」ことにぜんぜん気づいていないのでした。このことに気づいていないとどういうことが起こるかと言うと、私の意識の中で巧妙なトリックが行われてしまうのです。
内面の葛藤を増す意識のトリック
たとえば、私は性格がちょっと暗いと他人から言われて もっと明るい人間になりたい、と思ったとします。こういった反応は当時の私にとってきわめて当たり前の反応パターンでした。しかしこのテクニークを理解し ていくうちに、そういった反応に突き進めば進むほど私の内面で葛藤が強くなり、疲れ果て結局はうまくいいかないということに気づいたのです。
なぜなら私は明るくなろうとする以前に暗くなるような考え方、感じ方、行為を「していた」のです。このことに気づくと、その「していたこと」をやめさえすればいいという大変シンプルな答えが出てきます。
しかし私はそこに気づかず、明るく「なろう」という方向の努力に突っ走るのです。そうすると、相変わらす私は暗くなるようなことを「している」まま、明るく「なろう」とするわけです。その結果、私の内面で二つの大きな力がぶつかり合い、葛藤がますます大きくなっていくわけです。
これは私の中の小さな戦争です。そしてそこにあるのは分裂と破壊と消耗です。以前、私は原爆を開発し、製造しておきながら一方で平和を唱えるどこかの国を 非難していましたが、それと同じことを私もしていたのでした。このことに気づいたときにはショックでその非難が急にトーンダウンしてしまったことを思い出します。かつて私が不安神経症になったのもこの種の意識のトリックによるものだということもだんだんとわかってきました。それと同時に現代社会において、 外部世界は便利に、豊かになったけれどこの意識のトリックによる個々人の内面世界の葛藤はますます大きくなっていることにも気づき始めました。個々人の内 面がいつも騒がしく、忙しく、平安ではないのです。
この種の意識のトリックは、自分自身が自分自身の問題を作り出すようなことを「している」ことに気づいていないか、その「していること」がその問題の解 決になると信じ込んで再吟味されないところから生まれてくるように思います。いずれにせよ本人はぜんぜん悪気はないわけです。それどころか善意から出発しているだけにこのことに気づくことが難しいのだと思います。そしてそのことは誰にも止められないということです。本人がその「していること」に気づき、それをやめようと意思しない限り止められないのです。なぜなら私自身がそれを「している」からです。
「しないこと」は自分自身を知るためのレッスン
そんなわけでこの「しないこと」のレッスンは私にとっ て自分自身を知るための実際的なレッスンでした。よく考えてみると瞑想や禅などもこの「しないこと」のレッスンと言えるのではないでしょうか? そして自己を探求するための最善の実際的な教育方法であることを古今東西の賢者達が示していてくれたのではないかと私は思っています。
このトレーニングが私の中で理解され、納得のいくものになっていくにつれて「しないこと」が以前よりも上達していき、私の中で何かまったく新しい変化が 生まれてくるのを感じ始めました。そして私の中に変化をもたらしたこの機能こそが、当初私が瞑想によって感じた、あの心身の爽快感をもたらしたものと同じものに違いないと直感しました。どういう意識のあり方がこの機能を活性化できるのか?という長い間の問いの答えは「しないこと」だったのです。
では自分が「している」ということにどうやって気づくことができるのか?これは実はからだが教えてくれるのです。次回、このことについてお話しすることにしましょう。
からだの「緊張」が意識の間違いを教えてくれる
前回にお話ししたように、「しない」ワークによって私が気づいたのは次のようなことでした。問題を解決するために自分に何か良いこと、あるいは正しいこと を「しよう」とするが、それ以前に私はすでにその問題が生じさせるような、自分にとって良くないこと、あるいは間違ったことを「していた」ということ、そ してそれを「しないこと」がいかに重要であるかということです。
それでは私はいったい自分自身が「している」という判断を何ですればいいのか? という疑問が次に浮かんできました。もちろん教師がいるときは教師の指摘がありますが、そのことを自分自身で気づけなければ自分で自分を理解することができないわけです。
そこでそのことにポイントを置いて私自身のやっていることをよく観察してみると、「している」時、私は無意識に私のからだに緊張を感じていることがわかり ました。つまり間違ったことを「している」かどうかは、筋肉の緊張によって判断できるということです。そして前回お話した“意識のトリック”、自分の「している」ことにきづかぬまま、その反対に「なろう」と努力することによって起こる内面の葛藤も、この種のからだの緊張によって始めて見抜くことができるのです。
このトリックを意識のみで判断することはできません。意識自体に錯覚やトリックがあるからです。実際、トレーニングが進んでくると私はこの種の活動が知り たいが故にその活動を感じようとするだけで、考えようとするだけで、感情的にとらえようとするだけで、内的な緊張がからだに起ることがはっきりとわかるよ うになってきました。このアレクサンダー・テクニークを創立したフレデリック・マシアス・アレクサンダー(1869~1955)も「その人の問題はからだ のことであれ、精神のことであれ、魂のことであれ、すべてその人の筋肉の緊張として翻訳される」と言っています。つまり思考、感覚、感情といったわれわれの意識活動の状態が良好かどうかはからだの緊張が教えてくれるというわけです。
そのようなわけで、私にとってからだがとても重要なものとなっていきました。からだはありのままであり、意識のようにトリックをしないからです。いくら私 が頭で正しいからだの使い方をしていると思っていても、内面の葛藤なく生きていると思い込んでいても私のからだに緊張があるとすれば、それは何かが間違っているということをからだが教えてくれているのです。
だたし私にはそれを正確にキャッチする感受性を磨く必要がありました。実際よく考えてみると私は、このテクニークのトレーニングを通して私の中で起こって くるこの緊張感に対する感受性を磨くという作業もしていたのでした。知らず知らずにこのからだというウソ発見器の精度を上げていたのです。もちろんその緊 張状態に気づくレベルは無限にあり、こういった作業の精進に従ってより緻密でトータルなものになっていきます。
アレクサンダーが発見したからだと意識のトータルな関係
アレクサンダーもからだに起こってくる緊張を道しるべ にして自己の問題を探求していきました。彼はシェークスピアの朗誦家でちょうど脂の乗り切ったところで声が出ないという問題を抱え込みました。それで方々の医者にかかったのですが改善されず、自分でその問題を解決するために自己観察を始めたわけです。そしてどういう自己観察からはじめたかというと、自分はいったい何を「している」のか?という観察から始めたのです。
長く、根気強い自己観察の結果、彼は自分の「していたこと」を発見します。それは次のようなことでした。彼は知らず知らずのうちに彼の習慣の中で首を固くして、後ろに下に引き下げ、その結果喉を締め付けていたのです。
[図1]を見てください。そして左の首、頭と右の首、頭の違いを比較してみてください。
右の絵の方が左の絵よりも首の外的な筋肉を固くすることにとって頭が後ろに引き下げられ、その結果、頚椎のカーブが強くなりそのことが彼の声帯を圧迫することになっていたのでした。さらに彼は、このことが起こらないためには首と頭だけの観察では不十分で背中全体を観察しなければならないことに気づいていき ます。
これはどういうことかと言うと、[図2]の左の絵と右の絵を比較してみてください。[図1]で示した首と頭の崩れが背中全体に影響していて、肋骨は押しつぶ され骨盤は前に下に回転して落ち込んでいます。その結果、背骨のカーブが強くなり全体として短くなっています。さらこのことは絵に示せませんでしたが、その影響で背中は左右に狭まり腕、脚も萎縮していきます。
このように彼は鏡と内面で起こってくる緊張感を道しるべとして自己の「している」ことのからだのトータルな関係性を発見していくのです。そしてそれと同時 に彼の中で緊張感に対する感受性も磨かれていきました。そのおかげで意識のトリックによる内面の葛藤が起こるときにも上に述べたからだの緊張パターンが微 妙ではあるけれども起こることを発見していくのでした。つまりからだと意識のトータルな関係性にも気づいていくわけです。
私自身もこういった作業を通して私の中の邪魔する要素が身体面と意識面でも少なくなっていき、それらが少なくなればなるほどそのことによって私の中で今ま で想像もできなかったことが私の中で起こってくることに気づき始めました。これは観念的には理解しがたいことで経験でしか納得のいかないものだと思うのですが、この「しないこと」を例えて言えばそれはちょうど汚れたホースを掃除するような作業だったです。その汚れが取れれば取れるほど水の流れはスムースに、勢いよく流れ出します。私がこういった学びのプロセスを知ったときに否定から肯定的なものが生まれてくるという仏教の考えがからだで理解できたような気がしてうれしかったことを思い出します。
からだに本来備わっている働きを邪魔しない
アレクサンダーはそれまでに一連の探求によって、首と 頭と背中の関連性がその人のからだの使い方のよしあしを決定していることに気づきました。そしてこの探求のプロセスから彼が導き出したのは、からだが本来の機能や能力を発揮できるためには「首を楽に、頭は前に上に、背中は上下に伸び、左右に拡がる」ことが重要であるということでした。この首と頭と背中の関 連性を彼は「プライマリー・コントロール」と呼びました。これは読んで字のごとく「最初に支配している働き」という意味です。また、これは「誰にでも本来 的に備わっている働き」という意味にもとれると思います。私たちが本来持っているものだとしたら、「する」必要はないわけです。からだがそのように働いて いないのであれば、それは外的な筋肉の緊張によって自分自身が邪魔をしているのです。したがって、それらを邪魔している要素を発見し、それをやめることに よってよりよい「プライマリー・コントロール」を探求し、発見することができるのです。
以前、彼がどうして「首を楽に・・・」からは始めたのかという疑問を持ったときに、苦しまぎれに「首」という漢字の意味を漢和辞典で調べたことがありまし た。するとその中に「ものの始め」、「最初」、「第一」、「かなめ」などという意味がありました。これはまさに「プライマリー」という意味ではないかと思い、昔の人のからだに対する感性の豊かさに改めて感心したものです。
さて、ここで注意しなければならないのは、このテクニークを少しかじった人に多いのですが、「首を楽に、頭は前に上に、背中は上下に伸び、左右に拡がる」 ということを「しょう」としてしまうことです。アレクサンダーが言いたかったことは、まさにそういうことを「しない」ようにということだったのです。彼のこれら一連の発見は、これまでお話してきたように、「いない」ことによって本来の機能を目覚めさせ、活性化させるということなのです。このことをよく理解しておいていただきたいと思います。
先ほどの図2をもう一度見てください。右側の人は、そういう姿勢になるように外的な筋肉を緊張させていたのです。以前の私も、右のような姿勢になったのは 首や背中やお腹の筋肉が弱ってきたからだと考えて、筋肉を鍛えることによって左のような姿勢に「しよう」としていました。そしてその目論見(もくろみ)は 上手くいきませんでした。ところがそれを「やめる」ことから始め、その「しないこと」で起こってくる機能に任せることによって、自然に左の絵のようになっ ていったのです。
とはいっても、外的な筋肉の緊張をやめるだけでは最初は何も起こらないでしょう。アレクサンダーが発見した「首を楽に、頭は前に上に、背中は上下に伸び左 右に広がる」という一連の動きは、私たちが通常行っている筋肉を使った動きとはちょっと違うのです。つまり、いわゆる「随意筋」をコントロールして、頭を上に持っていくことではないということです。それは私なりに言えば「動き以前の動き」「動きの中の動き」なのですが、この種の動きに関しては客観的な、つまり生理学的、医学的研究はなされていないので、なかなか上手く表現ができません。ですから、個々人の内面において実感してもらうしかないのです。
次回は、この「しない」ことについて、実際にからだを使った簡単な実験ワークをしていただこうと思います。
自分のからだの違和感や緊張感を観察してみる
これまで話してきた「しないこと」が単に観念的なもので終わってしまわないために、実際にからだを使った簡単な実験ワークをしてみましょう。
まず、仰向けに寝て、肩幅ぐらいに広げ、両膝を立てた姿勢になってリラックスしてください。その姿勢のまま「今ここにあるからだ全体」に静かに注意を置く ようにします。そのようにしていると今まで気づかなかったからだに関するさまざまな情報が感覚をとおして脳に入ってくるのがわかると思います。しばらくの間、その情報を受け取っては放し、また新たな情報を受け取っては放しという作業を淡々と続けてください。そういう作業をしているとさまざまな部位が、あるいは特定の部位が重いとか固いとか詰まった感じといった自分にとって不快な感覚がだんだんと強く脳にはいってくると思います。感覚が内面の葛藤状態をとらえ始めるからです。このことについてはあとで説明します。
おもしろいのは、その時の意識の動きをよく観察してみると、その不快に気づくのとほとんど同時にそのことから逃れたい、あるいは克服したいという気持ちが 湧いているのに気づきます。時にはそうしてじっとしていることさえ困難な時があります。私自身このワークをしていると問題を感じたときに早く問題を解決 「したい」という自分自身の欲求の性急さにいつも気づかされます。
以前、ある方から禅宗において「意馬心猿」という言葉を教わったことがあります。その当時は私にとっては実感のない言葉だったのですが、このワークを通してまったくそのとおりだなあと実感しています。この言葉を当てはめて考えてみると、「したい」という気持ちは馬のように素早く沸き起こり、心はサルのようにずる賢く、トリックによって「している」ということに気づかせないということになります。このような状態が私の言う「している」ということであり、その 事実を受け入れ、そのままでいることが「しないこと」なのです。
この作業をしばらく続けたら、今度はからだの動きの状態を調べたいと思います。右の膝を1センチか2センチ動かす程度の小さな動きでいいですからゆっくり と左右に動かしてみてください。その動きをしながらその動きに関する感覚的情報を受け取ってみてください。ギクシャクしてスムースに動かない感じ、どこか に緊張が高まっていく感じ、それはどの程度の緊張か?といったことを観察してください。同じ要領で左膝もやってみてください。
今度は同じように頭をそっと左右に転がしてみてください。その動きを続けながらどの地点で、何処に、どの程度の緊張が起こるかをよく観察してください。
最後に右腕をゆっくりと手、前腕、上腕の順に床に対して垂直になるまで持ち上げていってください。そのプロセスでどの瞬間に重さを感じ、からだのどの部位 に緊張を感じるかをよく調べてみてください。同じようにそのことに注目しながら腕を下ろしていきます。2,3回繰り返します。同じ要領で左腕も行ってみて ください。
からだの不快感は葛藤の度合いを知るリトマス試験紙
以上の簡単な動きの観察から自分自身のからだについて どんな感想を持たれましたか? 私自身が最初に感じたことは、想像以上にからだが自分の思いどおりに動いてくれていないこと、そして各部位を動かすために は想像以上に努力感や緊張感が必要なことでした。どうしてこういうことが起こるのでしょうか?私の筋力や体力がないせいでしょうか?でもこんな簡単で 小さな動きに必要な体力がないとはどう考えても思えません。
そこで私が推測したことは、この緊張感や思い通りにならない感覚は、動こうとした時に自分の中で起こってくる葛藤の現われではないかというものでした。ここで私が言う葛藤という意味は、たとえば右腕を動かそうとしたときに当然Aという方向に力を入れます。ところが同時に何故か私はそれを邪魔するBの方向にも力を入れてしまうわけです。その結果、力Aと力Bとがぶつかり合い葛藤が生じてくるのです。その葛藤が大きいほど動かそうという緊張感も大きくなっていくわけです。そしてその緊張感が小さくなればなるほど自己の内面の葛藤も少なくなってきたと判断できるわけです。
したがって、あまりいい気持ちのものではありませんが、このからだに感じる葛藤感に対する感受性がとても重要なものなのです。なぜなら今言ったようにこの 感受性が自分自身の内面の葛藤度を知るリトマス試験紙のような役割を果たしてくれるからです。もっともこれはリトマス試験紙のように客観的で、誰にでも共 通する基準があるわけではありません。個々人によってその感覚の基準は違うし、感覚そのものの性質が相対的なものだからです。だからこれは個人的な経験で先ほどよりもその葛藤感が大きくなったとか小さくなったという比較でしか判断できないものです。でもわれわれが相手にしているのは今の自分自身の葛藤についてで、他人についてではないのですからこの感受性で十分にこと足りるわけです。
ここでもう一つ注意しておいて欲しいことは、先ほどの動きの観察で、あまり努力感や緊張感を感じなかったので内面の葛藤がない、反対にそのことをすごく感じたの葛藤が大きいのだと単純に即断してしまうことです。というのもこの種の感受性にも非常に個人差があるからです。ですから緊張感を感じなかったのはそれに対する感受性が低いからかもしれないし、緊張感を感じた人はそれに対する感受性が高いからかもしれないのです。いずれにせよこういった自分自身に対す る実験ワークを繰り返し行うことによって内面に起こってくる感受性を磨き、自分自身の基準を育てていくしかありません。
「しないこと」によって目覚める機能がある
ここまで理解すれば今度は如何にしてこと葛藤を減らすことができるのか?という疑問が浮かんでくると思います。そして、もし私が言うようにこの葛藤が内部での力Aと力Bとのぶつかり合いの結果起こっているとすればどうすればこのことをやめることができるのでしょう?
さて、もう一度仰向けの姿勢になり、両膝を立ててください。そして先ほどとはちょっと違った意識のあり方を試みてほしいのです。
先ほど脚や頭腕の動きを感じてみた時に意識はその各部位に動いていたと思うのです。今度はそういうふうに意識を分裂させて個々別々に見にいくのではなく、からだ全体に同時に、均等にゆっくりと広げてみて欲しいのです。そしてさらにそのからだ全体がある部屋の空間全体にやはり同時に、均質に広げてみてくださ い。その空間の中に自分のからだ全体があると考えてもいいでしょう。そうやっているとなんだか意識がだんだんとぼんやり、あいまいになってゆく感じがする と思うのですがそれでいいのです。その意識のあり方を保ってください。からだは何もしないでリラックスさせておいてください。ただ、そう思うだけ、感じるだけでいいのです。
しかしその意識のあり方をしばらくしていると、先ほどもそうだったと思うのですが、いろんな考えが頭の中に浮かんだり、からだに対する感覚的情報が入ってきたりしてくるでしょう、その時に意識は今までのあり方をやめて、その考えや感覚に集中し、固着し始めるでしょう。それはそれでしょうがないのでそれでいいのですが、そのことに気づいた時点で意識はそのことに集中し、固着するのをやめて先ほどのからだ全体に、空間全体に広げる意識のあり方に戻ってください。ある思考や感覚を意識がとらえては、放し、そしてからだ全体に、そのからだがある空間全体に意識を広げるという作業を淡々と繰り返していて欲しいのです。何度も言いますがからだは何もしないでください。ただそう思う、あるいは感じるだけでいいのです。約5分間ぐらいやってみます。
終わったら気分をブレイクして脚を伸ばして休んでください。1分ほど休んだらもう一度両膝を立てた姿勢になってください。先ほどと比較して何かからだの変化に気づきませんか? そしてもう一度先ほどやった膝の動き、頭の動き、腕の動きをやってみてください。先ほどと比較して内部で起こってくる動きの質の違 いを感じませんか?
この実験ワークの結果、
(1)最初のからだと比較してずいぶん楽に動けるようになったと感じる人
(2)あまり変化を感じない人
(3)かえってからだが 固まって、動きが重くなった人というふうに個々人によって違いが出てくるでしょう。
(2)や(3)の人はおそらく「しないこと」がうまくできなかったので しょう。しかし、諦めないで今やったワークを繰り返しやっていくうちに知らず知らずの変化がやって来て必ずその変化がわかる時がやってきます。これは数多 くの人たちとのセッションの結果、私が確信していることです。というのも、われわれ誰もが持っている機能だからです。ただそのためには「しない」ワークを とおしてこの機能を邪魔しないことを少しずつ時間をかけて学ぶ必要があります。そして最初と比較して楽になったと感じた人は、まさしく私がアレクサン ダー・テクニークを学ぶ以前に瞑想によって感じていたものなのです。それは「しないこと」によってある機能が目覚め、それがからだや意識に調和、統合をも たらしたのだと私は考えています。
以上3回にわたって私の「しないこと」のトレーニングをとおして発見したことをお話してきたわけですが、こういった視点で現代社会を見回してみると、エネルギー問題にせよ、環境問題にせよ、健康の問題にせよ、よからぬ状況になっているそのほとんどがわれわれ人間が「している」ことに起因しているのではないでしょうか。だとすればその問題の源はわれわれ人間にあるのではないでしょうか? したがって時間がかかってもまずはその源であるわれわれ一人一 人が変わることから始めるしかないような気がします。そしてそのヒントがこの「しないこと」にあるのではないかと私が思っています。そのことによって自己 を邪魔している要素を発見し、さらにそれを「しないこと」によってわれわれの智恵の源であるいのちのエネルギーを活性化することができるのではないかと私 は思っているのです。
《月刊“湧”(地湧社)より》
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