2006 新春鼎談
谷村英司 / 中白順子 / 松嶌 徹
谷村: 明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
松嶌: おめでとうございます。今年は恒例の新春対談に中白先生にも加わっていただいて、鼎談(ていだん)スタイルでいきたいと思います。よろしくお願いします。
中白: おめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
松嶌: 去年はいろいろな流れがまとまって水面に現れてきたような、変化が目に見えた1年でしたね。
中白: そうですね。私にとっても節目になった気がします。
谷村: 振り返ってみると、やはり一昨年のコングレス(アレクサンダー・テクニーク世界大会)の流れでリカ・コーエンさんを招いたことかなあ・・・。
松嶌: 世界中から集まっていた教師のなかでも、圧倒的な存在感でしたからねえ。彼女の来日は期待以上のディープ・インパクトでした。
中白: ほんとに! とくにリカさんの究極のプラス思考・・・。ワーク中でも、日常でも何に対しても諦めない態度が勉強になりました。私の場合、勝手に限界を作っていたように思います。これは私の思い込みで、まだまだいけるなあと思いました。
谷村: そ うそう、私もそれは感じましたね。でも、不思議なんだけど、普通プラス思考の人って何だか強引で強制的で、不自然な感じがするものだけど、リカさんの場合 それを感じさせなかったなあ・・・。厳しくはっきりと指摘されるのだけれど、縛られている感じがしないんです。気持ちが萎縮しないんです。叱られてありが とうって感じ、あれは何でしょうね。
松嶌: 生徒との間には、ただアレクサンダー・テクニークがある。そんな混じりっ気なしのスタンスでしょうか。マイナスに対するプラスじゃなく、まっすぐプラスが立 ち上がっているような。大分で3日間ご一緒させていただきましたが、相手がまったくの初心者でも気を抜くような様子はまるでありませんでしたね。一度ゆる めてしまうと自分のほうが乱れてしまうのは分かっていても、なかなかできないこと。そして、お疲れの時にはさっと休み時間にして、充電してからまた同じよ うに続けられました。
谷村: 判断に戸惑いがない。私なんかワークをしていて疲れてくると、「疲れたなあ」という自分と「頑張れ!」という自分が見え隠れして心理的に中途半端な気持ちでワークを続けている時があります。そういう時はダメですね。
松嶌: 僕なら、やたらコーヒー飲んでトイレに行ってばかりして。
谷村: その時の自分の状態を正確に捉え続けて、その疲れが盛り返せそうなら続ける、あるいは疲れているならさっとその疲れを受け入れて短時間でも休むことに専念する。彼女の場合その判断に戸惑いがないように感じました。
中白: そ のことに関して昔の私の場合、判断や選択するまでに時間がかかっていましたが、ワークを勉強するようになり、問題に対して少しストップをかけるという“イ ンヒビジョン”をして現状をそのまま見る余裕を自分に与えることができるようになると、かえって決断が早くなった気がします。おそらくリカさんも、40数年の指導経験を通してそういったことが成熟した結果だと思うのですが・・・。
松嶌: 体の使い方と同じように、自分の心のクセをも熟知して、どう付き合えばいいかをマスターしておられるのでしょう。小さな信号をキャッチして、ここを無理したらいけないとか、今は甘やかさなくてもいい、とか。
谷村: し かしそのことを実際にやってみようとすると、なかなか難しいことだとわかります。たとえば私がパソコンに向かって仕事をしているとします。そして私の意識 がその内容に向かっている時、私自身のその時の状態に気づくためには、いま順ちゃんが言ったように、意識がその向かっていることをちょっとストップしなけ ればなりません。それがなかなかできないものです。とくに気持ちが急いでいる時なんかはね。何べんやっても上手くいかないんです。でも、そうこうしている うちに私はあることに気づきました。私の意識の持っていき方が極端すぎていたことに。意識に“濃淡”があるとしますよね。私が何かを感じたり考えたりする 時にそれに対する意識が濃すぎて私の全意識が引っ張られてしまい、ストップすることができないんだと。
松嶌: ひとつのことに気をとられて、ほかのことが見えない状態ですね。ストップするという選択肢を思いつく余裕がない。
谷村: そう。だからストップするという発想を止めて、注意が向いているその意識の濃度を少しずつ薄めていくことにしてみたのです。すると面白いことに、私の意識は 自分自身やその周りで起こりつつあることにも気づけるようになりました。話がわかりにくいかもしれませんね。もう少し実感のあるものにしたいので(読者の 皆さもご一緒に)実験してみてください。手のひらを見てください。次に親指に意識を向けてください。そして親指を感じようとすればするほど、そこに意識が 向き、濃くなりますね。そうするとからだ全体が固くなり何も気づけなくなります。そこでその親指で濃くなった意識を少しずつ薄めてみていってほしいので す。そうすると親指だけに留まっていた私の感覚は他のいろんなところに広がり、拡散し始めるのがわかると思います。
松嶌: ・・・濃度差が少なくなって、じわーっと広がる感じだな。
中白: 私はワークや日常でも、集中してポイントを当て、意識の濃度が濃くなると苦しく感じ、続けることができなくなって勝手にストップする感じですね。
松嶌: そこまでゆくのは集中力があればこそですけれど。ふつうは勝手にストップするほど苦しくなる前の中途半端なところで、濃度がまだら模様で散漫になってしまう。
中白: 人それぞれの濃淡はあっても、失敗してはいけない仕事、知らないことにトライする場合などのときは、知らず知らず濃度が濃くなっていると思います。
松嶌: そうですね。前屈のポーズなら、近づけようとする頭とひざの距離への意識ばかり濃くなって、おなかを無理に縮めている緊張や呼吸のことが消えてしまう。やっ ぱり、もう少し~って集中している最中に、ストップかけるのはむずかしいですね。「おでこを脚に」という意識の濃さを薄められら、息が詰まっているのにも 気づけます。動きを大きく、足の裏で大地を感じましょう、天に向かって伸びてゆくように~なんていうリードは、濃淡を平均化するのに役立っているのでしょ うね。リカさんもよく「空へ向かって!」なんていう表現をされていました。
谷村: “Aim to up(エイム・トゥ・アップ)!”っていうやつですね。いかにもプラス思考って感じでした。しばらくの間この英語が耳についてはなれませんでした。(笑)
松嶌: それで連想するのが8段階のヨガ行法なんですけれど、呼吸法の次にプラティヤハラ。「制感」って訳されていて、感覚器官の情報に乱されがちな意識を鎮める作 業です。そして瞑想という段階に入って、まず、意識濃度をあげて極限まで濃くするダラナーが「凝念」。そこでストップするのではなく、次は逆にどんどん拡 散してゆく意識状態のディアーナ。「静慮」っていう訳語を当てますが、これが漢訳で「禅那」、禅なんです。禅で強調される“こだわりのない心の状態”が、 英司先生のいわれる濃度差が小さい状態に通じるんでしょうか。
谷村: なるほど、なかなか上手いこと言いますね。私もいつもその“こだわりのない状態”になりたいなあと思っているのですが、現実はそうではありません。だからい きなり“こだわりのない心の状態”になろうとするのは私のような凡人にはちょっと無理があるように思うんです。なぜなら自分自身の意識の濃度に気づいてい ないからです。さもないと私は“こだわりのない心の状態”になるために意識の濃度を濃くする方向に走って(エンドゲイニング)しまうからです。
松嶌: こだわりのなさにこだわっちゃう。
谷村: 私は長い間そのことに気づかず間違った方向の努力をしていました。そうするとますます自分自身を苦しく、追い詰めることになるのに・・・。はじめはなかなかそのことに気づけず何が自分をしんどくしているのかがわからなかったわけです。
中白: そう言えばトレーニングコースの辛かった時期を思い出します。正しいことをしょうとして、濃度を濃くする方向に走っていたんでしょうね。正しいと思うことを 真面目にし、濃度を濃くすることが学ぶことだと思っていたように思います。濃度を濃くしていることに気づいていないので、しょうがないのですが。でも、教 師にひとこと「違う」と言われても、真面目に勉強していて何が悪いのよ?と思っていました。何が違うのかわからないことが辛いだけでなく、濃度を濃くする ことは、身体を緊張することにもなり、トータルに回りも見えないし、それが自分自身をしんどくしていた原因だったんでしょうね。
松嶌: 舞い上がったかと思うとどん底まで落ち込む、そんなのが続く時期がありますね。未熟な感覚で自分の位置を測っているものだから、教師よりも自分のほうが正し いんじゃないかっていう疑いまで起こって、つい反抗的になったり。ほんとの勉強には辛抱のしどころ、胸突き八丁っていうか、先に進めなくてしんどい「踊り 場現象」っていうことがかならずあるものです。
谷村: そこで焦ってもダメだし、あきらめてもいけない。
松嶌: ヨガ協会でも指導者になるには一定の期間かけてもらうんですが、アレクサンダーテクニークの「3年間で1,600時間」っていう世界基準は、インスタントに慣れた日本人にはちょっとキツイ。今年から始まるトレーニング・コース、先生も生徒も、ほんとうにごくろうさまです。
谷村: 自分が当たり前だと思って見過ごしている無意識のところを見直さなければなりません。学ぶときには意識を濃くして集中することが正しい当然の態度だ、そう思 い込んでいる無意識の反応に気づかないうちは苦しみますね。そういう意味では、教師の指摘をなんだかんだと自分の理屈で曲解したりしないで、とにかく馬鹿 になったつもりでやるといったことも必要かもしれません。3年頑張ればその後のその意味がじわじわとわかってくるでしょう。
松嶌: 引っかかって動けなくなるのは、アタマというかエゴというか、自分のものさしが邪魔しているサインですから。片手の拍手はどんな音かみたいな公案禅にも通じるのかな。「バカになる、バカになる~」って、いいマントラだな(笑)
中白: その“片手の拍手の公案禅”てどういうものなんですか? もう少し詳しく教えてください。
松嶌: 白隠という禅僧が弟子たちに出した「隻手(せきしゅ)の声」っていう問題で、拍手は両手でするものだけど、それを「片手でたたく音がある。それを聞きなさ い」っていうの。弟子たちは必死に考えるけれど、わからない。正解を考え出そうとしてもだめで、炊事場の小僧さんが最初に悟ったという逸話付きなんです。 アタマで考えること、知性の限界を教える物語ですね。僕たちはものごとを客観的に見ているつりだけど、客観的といった瞬間に、自分と対象が分かれますね。 そういう“分別”にこそ迷いが生じるというのが禅のテーマのひとつ。
中白: 難しいですね。でも谷村先生が言われたことと同じことなんですね。
谷村: “さとろ さとろと この頃せねば 朝のねざめも 気が軽い”(盤珪禅師)ですね。(笑)
中白: それから、からだの状態をそのままに観ることが私の場合、難しかったですね。なぜなら私の意識は今ここで起こりつつあるからだの状態に留まっていてくれないからです。
松嶌: 抜け出ちゃうんですか?
中白: たとえばグループワークをしている時、自分が気になっている問題を考えていたり、仕事のことを考えたりいつの間にか意識が好き勝手に飛び回っている感じで す。そんな状態ですから、当然、瞬間瞬間の繊細なからだの変化に気づけませんし、ダイレクションやからだの関係性もとらえることが難しいのです。これまで 何十年間も知らず知らずに好き勝手に意識を飛び回らせていたものですから、それを“今・ここ”に留めることは辛い感じでした。
谷村: 要するにからだと意識がバラバラになっているうちはしばらくそういった状態が続きますね。でも繰り返しワークを続けているうちに、無意識のレベルで分裂して いたからだと意識がつながってきて、やっといろんなことに気づけるようになってきます。これには時間が必要な気がします。
松嶌: 瞬間、あ、わかった!って感じても、一晩寝たらもう怪しくなりますから。昨日の感じは夢だったのかって。F.M.アレクサンダーが嘆いたとおり、習慣の力っ てホントに根強いですね。彼が晩年は子供たちに教えようとしたっていうのが分かるなあ。ともかく、絶望しないためにもバカになるに限りますね。
谷村: ところで、『インナームーヴ』も知らず知らずのうちに気がついたら10年が過ぎていたのですが、この号が11年目の第一歩となるわけですね。アレクサンダー・テクニークの方では,その11年目に向けてトレーニングコースという新たなチャレンジが始まるわけです。
松嶌: ほんとに大きなチャレンジですが、ワークを淡々と続けてこられた皆さんに準備ができた絶妙のタイミングに、リカさんのジェット・エンジン的な推進力を加えて。
谷村: もちろん、これは意図的にそうしたわけではなく、これも気がついたらたまたま10年だったんです。45周年っていう国際ヨガ協会としては、来年に向けて何か新たなチャレンジを考えておられますか?
松嶌: ヨガについてはこの2年ほどブームの嵐が吹き荒れている感じなので、新しいことをしようとは思いません。むしろ当分の間は、意識して足を踏ん張っていないと 自分を見失うような怖さを感じています。TRYという指導者育成のための研修があるんですが、生徒として学ぶ期間の短い人には、体も心も、はっきり準備不 足を感じます。勉強の機会や素材を加えるなら、とにかく基礎固めですね。私自身や師範会のメンバーでこれまでにつかんだものを系統立てて整理したいとは 思っていますが、経験豊富な先生がたにはこれまでの歩みに自信をもって、無理のないペースを守ってほしいとだけ願っています。
谷村: それはとても大切な態度の方向だと思います。とくにブームなんかになっちゃうと、とかく目先のことばかりに対応してしまってその本質が見失われてしまう場合 がありますよね。先日私のところに問い合わせがあって、「ホットヨガ、やっていますか?」と聞かれたんです。私はそんなの知らなかったんで、「ホットヨ ガっていったいなんですか?」って反対に聞くと、「おたくは何十年もヨガをやっておられてホットヨガも知らないんですか!」って言われてしまいまし た。(笑)これからも○○ヨガってのはいろいろ出てくるでしょうけど、ヨガはヨガでしょう? その本質というかもっとも大切なところを押さえておきたいで すね。
中白: それって、アレクサンダー・テクニークの世界でも同じことが起こっていますよね。○○のためのアレクサンダー・テクニークというの。
松嶌: テレビや雑誌は“○○のための××”情報を、組合せを変えて流し続けるのが仕事。新しい情報を得る、新しいことをするって、前進した気がするんですよね。前 に食べたものをじゅうぶん消化する前に、次のご馳走を見せられて、食いつく。それこそ“消費者”っていう言葉の意味だけど、マスコミは乗り遅れちゃう よ~って不安をあおるばかりだし。
谷村: そうですね。そのおかげでその本質がどこにあるのかわからなくなってしまうんです。ですからこういう時こそ足元を見直し、そこのところを充実させるゆとりが ほしいですね。少なくとも自分自身はヨガを通じて、あるいはアレクサンダー・テクニークを通じて、何を伝えたいのかはっきりさせておきたいですね。
松嶌: 自分のなかでいいのでね。生徒さんが始めるきっかけは痩せたい、腰痛を治したい、ストレスを発散したい、生き甲斐を見つけたいなど、人それぞれ。間口を広げ て受け入れるのはOKなんだけど、指導する側がこれから始めようかという人の期待や都合に振り回されないように。ちょっと流行りかけた「スローライフ」、 「スローフード」っていう言葉もあまり聞かなくなりましたけど、人間の本質に関わる学びこそ急いじゃいけないスローなプロセスだっていうことを、ヨガやア レクサンダー・テクニークの世界では忘れないようにしましょう。
中白: “ 前に進む”というより“本質に戻る”という意味では、先ほど話した濃から淡への方向性と通じるような気がします。トレーニングコースでも、生徒は前に前に 進みたがって意識を濃くする方向に行ってしまうものなんですが、そのたびに教師によって自分自身の本質に戻されるんです。そこに、経験でしか説明できない 欲求不満が出てきます。そこが我慢のしどころですね。
松嶌: 生徒にも忍耐、教師にとっても忍耐。
谷村: そして、その忍耐から自分でも想像しなかったまったく新しい世界がきっと開けてくるという希望も忘れないでほしいですね。コングレスでキャリングトンさんが 言っていた“wish”をね。我慢だけではやってられない。てなわけで、今年のテーマは“忍耐と希望”ということでどうでしょう?
松嶌: 決まり!ですね。忍耐の下には不安や恐怖が張り付いていることが多いけれど、ほんとうは希望なんだよって気付くこと。
中白: そうですね。トレーニングコース中は、自分がわかっていなかったことに気づくだけで落ち込みがちなので、プラス思考で学べるように、教師側が引っ張っていきたいと思います。そして生徒も教師も、忍耐が希望に変わればいなぁと思います。
松嶌: 人さまを本気で励ましていると、実は自分自身を励ましていたんだっていうことがあります。仏教の修行では「同行二人」とか「師弟不二」という言葉があるけれ ど、一人ではなく、ともに進化するために教師と生徒が互いを必要としているわけですよね。その二人を結ぶ力が“忍耐と希望”。今年はそれぞれの道、それぞ れのクラスで、さらに強く結びつきができそうです。
谷村:「と もに進化するために教師と生徒が互いを必要としている」。う~ん、いいですね!会長の名言集のひとつに入れましょう。(笑)ほんとにそう思うな。そういう 視点から見れば、生徒と教師は“フィフティー・フィフティー”ですね。そしてそれぞれがそれぞれの立場でただただやるべきことをするだけなんだけど、その ことが互いの進化を助けることになっている。そう考えると今年がどういう進化がわれわれに起こるのか、楽しみですね!
中白:お互いそれぞれの道を行きながら、一緒に学んでいく楽しみもわかりますが、私には荷が重いなぁ。やっぱりトレーニングコースの教師や~めた。なんて、ありですか?(笑)・・・冗談です。まだまだ未熟ですが、皆さんよろしくお願いします。
松嶌: みんなでバカになって。
谷村: “忍耐と希望”でいきましょう!
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