2009 新春鼎談

谷村英司 / 中白順子 / 松嶌 徹


谷村:明けましておめでとうございます! 今年もどうぞよろしくお願い致します。

松嶌:おめでとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします。

中白:明けましておめでとうございます。旧年中は皆様には本当にお世話になってありがとうございました。今年もよろしくお願い致します。

谷村:さて、去年もいろんなことがありましたね。アレクサンダー・テクニーク(以下、AT)研究会の方で私の思いつくのはリカさんの2度の来日、スイス・ルガノでのコングレス参加、それと…。

中白:それと今年でAT研究会のトレーニングコースの第一期生が卒業します。3月15日、サットサンガでの二日目に新しい教師をご紹介いただき、その後「卒業パーティ」を開いていただけるんですよね。ありがとうございます。

谷村:そうそう! それを忘れちゃいけませんね。いろんな困難がありながらなんとかやり遂げられて、われわれもよく頑張りましたね。

中白:本当に! 谷村先生の入院があったり…。無事3年間が終えることができたのもトレーニングコースの皆さんの協力があったからこそだと思います。それに学んだのはトレーニングコースの皆さんだけでなく私たち教師もとても勉強になりました。

松嶌:とくに昨年はこれまで以上に研究会が飛躍された一年になりましたね。そのダイレクションのまま、今年も充実したワークをされることを確信しています。京都でのご披露、楽しみにしています。

谷村:そうですね。それと4月から大分スクールがその発展した形として福岡スクールに移ることにもなりました。九州では大分研究会も引き続きやっていくつもりですが、福岡でも研究会を始めることになります。とても便利な場所なので興味のある方は気楽にお問い合わせ下さい。

ところで国際ヨガ協会としての思い出される出来事は何ですか?

松嶌:私 自身にとっても、前年の大我先生に続いて西野信次先生が逝かれたことがとても残念で寂しく思われたことでした。でも、両先生の教えを受けた人たちが力強く バトンを受け継いでくださっていることに、世代を超えてゆくみんなの蓄積を認識できた年だったといえるかもしれません。

谷村:なるほど。亡くなられたことは本当に寂しいことですが、それだけではなく確実にそれぞれの先生方の教えが受け継がれているというのを見るとなんだかポジティヴな気持ちになりますね。

松嶌:『千の風になって』ではありませんが、むしろどこにいても見守り、励ましてくださっていることを感じとることができれば、それほど心強いことはありません。

中白:ここまで真摯に学んでこられた方々がおられたからこそ私達が前に進めるんだと思います。そしてそれらを受け継ぐ情熱を持った人たちが次々に現われることが大切ですね。

谷村:そこでこの“受け継ぐ”ということをもう少し考えてみたくなりました。というのも、ヨガでもアレクサンダー・テクニークでもずっと受け継がれてきたわけでは ないですか。ですからこの“受け継ぐ”とはどういうことかをもう少し掘り起こして考えておいたほうがいいような気がします。

松嶌:協会も昨年、創始者の二十七回忌という一区切りを迎えることができたので、改めて確かめておきたいと思います。

谷村:ヨガはその歴史が長すぎて誰がやり始めたのかわからなくなっていますね。それに比べるとATはまだ歴史が浅い。でもそのおかげでフレデリック・マサイアス・ アレクサンダーという人が始めたことは明確です。ですからこのATの場合の“受け継ぐ”ということを考えるとわかりやすいので、例にとると私や順子さんは ATの教師としてそれを伝える責任があると思います。しかしわれわれはF.M.アレクサンダーから直接習うことはできません。習いたくてもそんなことは不 可能なのです。ですからわれわれはヘズィーさん、リカさんやシモエルさんといった先生からATを習ったわけです。ここで私が言いたいことは、“受け継ぐ” ということはその先生の教えをそのまま純粋に次の世代へ伝えることではない、あるいはそんなことは不可能ではないかということなのです。ここにはそれを受 け継いできた個人個人がぜひとも必要なのですが、それと同時にそこに個人の受け取り方が介入してくるということです。

私は若い頃、本当のヨガはいったいどこにあるのかなんて考えてインドにまで行ってそれを知りたいと思いましたが、そういう考えが間違っていることに今は気づきます。どういう意味で間違っているかというと本当のヨガとか本当のATという発想からは何も見つからないからです。

中白:その“本当”というのは、本質、あるいは基本といった意味ですか? 

谷村:そうですね。ですからそこにはその本質が純粋にあるわけではなくそれを受け継ぐ人の個性が混ざり合っているものだと思うのです。ですから大切なのは今現在ヨ ガを、あるいはATをやっているその個性を持った一個人からそれを学ぶということです。そして私なら私がその先生から実際になにか精神的な、あるいは身体 的な触発を受けたかどうかということだと思うのです。そしてそのレベルは一緒ではなくみんな個人、個人違うのだということです。でもそこからわれわれは学 び始めるべきではないかと思うのです。だからわれわれはヨガやATを学ぶのだけれど、それと同時にその先生個人からそれを学ぶのだということをよく理解し ておく必要があると思うのです。

松嶌:本当のことは個人から個人にしか伝わらない質だということですね。でも、その教師個人のなかでなんらかの変質が起こることは当然だと認めながら、同時にすべての教師は本当のことをそれなりに受け継いでいるって言い切れるものでしょうか?

谷村:もちろんそんなことは言い切れるものではありませんね。だからその“本当のことを受け継いでいる”という考えというか発想そのものが混乱を生むのではないかと言いたいのです。そんなことは誰も決められないし、見分ける方法もないでしょう。

言い方を換えれば、みんなが「われこそは本当のことを受け継いでいる」と言い出したとしたらいったいどうなるのでしょう?

松嶌:「直伝」とか「本家」なんてね。そしてすぐに「あいつは未熟だ」、「あれは邪道よ」なんて批判したりして。そこで、思考停止。

中白:初心者には誰が基本や本質を受け継いでいる教師か、なんて選べないですしね。

谷村:ですから本当のことを受け継いでいるかどうか分からないけれど、すくなくとも「私はこの先生からこういう教えを受けて助けになった」ということは言えるし、 それがヨガ、あるいはATの先生であったということも言えるというわけです。本当のヨガとかATを見ようとする人は往々にしてそれを伝える先生個人を見な いものです。その先生個人がその本質を伝えようとしているのですからそれを見ないとなにも伝わらないと思うのです。

中白:谷村先生が言われることは、私も年々そう思えるようになってきましたが、ヨガかアレクサンダーか、その本質がわからなくなってしまわないように気をつけないといけないと思うのですが…。

松嶌:その「気をつける」という態度が大切ではないでしょうか。それは自分自身に向けると同時に、自分が教わっている人にも向かわざるを得ない。やっぱり矛盾する ようだけれど、本質、AT用語のファンダメンタルズをつかんでいる先生に出会うことができれば幸運なのは間違いない。受けとる側は初めのうちははっきりと 理解できないかもしれないけれど、触発されて自分が変わることを感じるからこそ続けられます。

寺でお経を読む前に唱える『開経偈(かいきょうげ)』は、「無上甚深微妙法・百千万劫難遭遇」といって、最高の教えに出会えただけで超ラッキー!という感 激の言葉なんです。ただ「我今見聞得受持・願解如来真実義」と、「これからそれを読むけれど、どうかちゃんと理解できますように」という、中白先生の言わ れた「気をつけよう」という態度の表明が続きます。そんな奴がどうして最高の教えって言えるのかって突っ込みたくなるけれど、受け取る側がそう感じるとい うこと、「助け」になっているという主観だけがいつも頼り。だから「助けになっているのかどうかに注意」して、その成りゆきによっては先生を変えること だってあり得るわけでしょう。

つまり、受け継ぐというのはクローンやワープロのコピー&ペーストみたいな複製ではなくて、反応の連続性を維持することだって言えるかな。何世代も繰り返 せば、さまざまなスタイルが生まれ、なかには本質的なものも変化することは避けられないし、それが自然というものでしょう。

谷村:そのことに関して、確か読売新聞の夕刊でしたが裏千家の千宗室家元の話で「客人に応じた所作が無意識にできるには基礎修練ができてこそ。それには『守・破・ 離(シュ・ハ・リ)』を踏む必要がある」という記事を思い出しました。伝統芸能では師匠は弟子にまず繰り返し基本形を教え込む。順子さんや会長が言う「気 をつけないといけない」というのはこの中の“守”ということだと思います。

中白:「守・破・離」…おもしろいですね。なんとなく理解できるような。守は、伝統や本質を守る? 破は、全く同じやり方ではなく少し壊す? 離は、今の現状から離れてみてみる。または、師匠から離れて独立してやってみる? と言った意味でしょうか?

谷村:私の考えでは、この“守”にはそれぞれ基本形、つまり“カタ”を持っています。でもこの“カタ”自体が重要なのではなく、その内側にある目には見えない、あ るいは言葉では説明しきれない本質が重要なのです。そのことを理解する為には繰り返しこの“カタ”を修練する必要があります。それとは反対に世の中にはい ろんな教えを渡り歩きこの“カタ”ばかりを収集してレパートリーを増やすことが多くを知ることだと思い込んでいる人たちがいますね。でもそれはちょっと違 うと私は思っています。なぜならその人たちは“カタ”のことについては多くを知り、博学かもしれないけれどその内側にある、目には見えない本質に対しては 無知な場合が多いからです。それを学ぶ手順が間違っているために彼らはそのカタの内側にとても大切な本質が隠れていることには気づいていないのです。そし て何にも知らない初心者がそういう先生から多くの“カタ”を集めることが大切だなんて教えられたら、その作業で精一杯で内側にある本質には目が行かず無知 なままで終わってしまうでしょう。

松嶌:結局あとに残るのは“カタ書き”ばかり、なぁんて…。

谷村:われわれがやっているATに例えれば、チェアワークという椅子を使って立ったり座ったりするワークがあります。これがこれまでの話しでの“カタ”であり基本 形だと言えるでしょう。そしてATにとってこの“カタ”そのものが重要なのではなくて目には見えないその内側に流れているものつまり“首と頭と背中の協調 作用”が重要なのです。これを理解するためには何度も何度も、何年も何年も繰り返しこのひとつの“カタ”を修練する必要があるのです。特に初心者にとって 多くの“カタ”を知る必要はなく、むしろテーマを制限することが必要だと思います。でも初心者ほど、若い時期ほど多くのことを多くの先生から知りたがり、 マネしたがるものです。その戒めとしてこの“守”という考えがあるのでしょう。

そしてそれらが十分に修練された上で次の段階の“破”があるように思います。この“カタ”を破るわけです。その“カタ”という枠から飛び出してみるので す。そうすると“守”の段階で身についた目には見えない本質がその“カタ”の枠から飛び出た別の“カタ”にも内側ではそれが脈々と働いていることに気がつ きます。

中白:夢中で学んでいるうちに、気づいたらカタの枠から飛び出しているってありますよね。私の場合、忠実に基本を守り、より深く理解したい! 横道にはそれたくな いという気持ちが強いのですが、深く理解したい気持ちや、生徒さんにもっと理解してほしいと思う気持ちが、自分なりの翻訳になっていたり、新たな体の関係 性の気づきが、結局はカタから飛び出してることになるんですよね? 破をしてるつもりはないけど。

松嶌:守りながらも外に出て初めて分かることがある、あるいは飛び出さないと分からないことがある、ということですね。海外旅行をして初めて日本の良さが分かるとか、自分が日本人だって自覚を持つというのに似ていますか。

谷村:その例えは面白いですね。ATで言えば、チェアワークで学んだ内側にある首と頭と背中の協調作用は立ったり座ったりの動作の時だけでなくあらゆる動作の中で 活かされていることに気がつくわけです。つまり他の国の人たちと交わることによって自分が日本人という“カタ”のもとにその本質を磨いてきたということが わかってくるわけです。“カタ”は違ってもその本質は同じだということにも気づくわけです。コングレスへ参加していつも感じることなんだけど、言葉は通じ なくても、カラは違ってもダイレクションは通じるんです。リカさんだって何か通じるものを感じるからこそ、30時間もかけてわれわれのところにやってきて くれるんだと思います。

中白:初めてオーストラリアのコングレスでシモエルさんのレッスンを受けたのを思い出します。シモエルさんのレッスンを受けた瞬間、私の背骨が働き、体全体がス ムーズに動くようになり、首と頭と背中の協調作用をはっきり感じました。「これって同じ感覚なんだ! この感覚は間違いない!」と思いました。だから、首 と頭と背中の協調作用が働かすことができない教師にタッチしてもらうと不満でした。あの頃はまだまだ若かったものですから。(笑)

谷村:そしてついには“離”、つまり師から離れてその師から教わった目には見えないその本質を理解していった自分なりの道を自分なりの“カタ”、あるいは言葉を用いて生徒に開示いてゆくのだと思います。

松嶌:本質を受け取れるかどうかは、カタがどれほどしっかりできているかにかかっていますね。未熟なときほど自分の都合のいいようにカタを変えたがるから、離陸し てもすぐに墜落しちゃう。特にいまの学校教育や資格商法って、あとがつかえているからガケから突き落とすみたいに修了でしょう。落ちて初めて自分のカタの 未熟さを痛感するものではあるけど、そこから戻ることもできないで途方にくれちゃう。

谷村:結果や成果、商売が先行しちゃうからそうなるんでしょうね。それとかエンターテイメントが先行しちゃう。もちろん、そういったこともある程度必要なことで全面的に否定するつもりはありませんが、それが先かというとちょっと違うような気がします。

松嶌:ええ。はじめは小さな現実的な妥協が、先にゆくにつれてどんどん逸れていくんでしょう。伝統芸能でいう破と離は、自分で破ったり離れるというより、カタを突 き詰めて、極めて、それでもなおカタを守って修行を続けていると、あるとき突然、底が抜けるみたいに破れる。破れることでそのカタがもつ新しい、より深い 意味を発見して、さらにカタの修行が続く…。そうこうしてるうちにいつの間にかカタが消えている。いや、自分がカタそのものになっている、それが離。守~ 破~離は継続的な変化で、本質はずっと生きている。それが分かるから何十年も椅子から立ったり坐ったりしていても迷うことなく飽きないんでしょう。アサナ でも、同じ[ネコのポーズ]も毎回違うことが分かるから勉強になるし、楽しい。その変化は10回や20回じゃ感じられない。だから表面的なスタイルの変化 や誰から教わっているかというようなことと、一人ひとりの中で起こっている守~破~離の流れは別のことだと考えたほうがよさそうですね。

中白:本質を受け継いでいくということは時代が変わり、環境や状況が変わっても生き残っていかなければならないということなんだけれど、進化しないと生き残ってい けないとも言えますよね? だから、守だけでなく、破だけでなく、離だけでもなく、受け継いで続けていくには「守・破・離」全部がひとつの流れとして必要なんじゃないでしょうか?

松嶌:守から破、離までがひとつにつながっているというのは面白いですね。分子生物学では「秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない」っていう言葉 があるんですが、考えてみれば誰も昨日の自分、去年の自分と同じはずがない。極端な例だけど、俳優の長門裕之さんがアルツハイマー型認知症の奥さん、南田 洋子さんを介護しておられるなかで感じられたというインタビューの言葉に感動したんです。それは「洋子が忘れていく現象を『進化』と呼ぶようにしていま す。自分の世界を造形している洋子は、私には進化しているようにも見えるのです」という。

中白:生徒さんから聞いた話ですが。お父さんが認知症になられて、看護している生徒さんが「昔の父は気難しくほとんど話すことがなかったけど、認知症になってから 子供に戻ったみたいに、私や母に何でも話しをし、病気になってからの方がコミュニケーションがとれるようになった」と。そして「父の介護が楽しいと思え る」とおっしゃっていました。認知症になったことを嘆くより、お父さんの変化に嬉しいと思える人がいらっしゃるとは思いませんでした。

松嶌:めちゃくちゃステキなお話ですね。ボケることの意味が変わってしまう。

オトナはそれまでに身につけた習慣とか知識とかにこり固まってしまって、なにも創造しなくなるでしょう。そんな状態でいくら新しいカタを集めてみたところ で、あるいは何十年続けたという経歴だって、ただ首からぶら下げているだけ。指導者のつとめは、まず自分自身の本質、カタを磨き続けているかどうか、で しょうね。

谷村:そのカタを磨き続けるには、個々の生活の中でそれを如何に活かすことができるかどうかにかかっているでしょうね。活かすことができなければ会長が言うように それをただ首にぶら下げているだけになってしまう。そしてそれを活かせるかどうかはその本質を本当に理解したかどうかにかかっています。例えば私がATの チェアワークで首と頭と背中の協調作用、つまりその本質を理解していれば、私の日常生活における所作のなかでそれを活かせることができるでしょう。そして ますますその技に磨きをかけることができます。ところがその本質を理解していなければ私はチェアワークで立ったり座ったりの動作を学んだだけだと思ってし まい、他の動きに対してどうしていいかわからないということになってしまう。つまり日常の所作でそれを活かすことができない。

松嶌:ヨガがレッスン中だけのものじゃないのと同じですね。体の使い方や呼吸のあり方、食事や睡眠、遊び方や対人関係まで、生活すべてがいつの間にか変わってくる。

谷村:それと会長が「誰も昨日の自分、去年の自分と同じはずがない」とおっしゃったことでもうひとつ私が思ったことは、われわれは生きて行く過程でいろんな出来事 に出くわします。怪我をしたり、病気をしたり、老化してゆく。お釈迦さんが言った「生老病死」ですね。これは避けられない。避けることができることもある かもしれませんが、そうならない方法を求めるよりも、そのなったときにどうするかを見出す能力を育てる方が実際的な気がします。以前は私も、病気や怪我を したら、それ以前の状態に戻ることが治ることだと思っていましたし、老化を防ぐために若い頃の状態に戻ることが大切だと思っていました。でも最近では、それはチョット違うんじゃないと思うようになりました。若い頃のまま、健康だった頃のままの生き方を維持しよう、あるいは戻ろうとすることはむしろ何も考え ないで生きることかもしれない。よく考えてみると、誰も以前の状態に戻ることなんてできないのです。だからそのことを受け入れるというか、病気や怪我をし てしまった自分を踏まえた上でこれからどう生きてゆけばいいかを新たに考え直すことが大切ではないか? 老化して行く自分を受け入れ、それなりの新しい生 き方を見出すことのほうが創造的ではないかと思うようになってきたのです。そしてそういう視点でATなりヨガなりを活かしてみるべきではないかと思うよう になりました。

中白:そういう意味でもヨガやアレクサンダーを“治療”や“癒し”としてではなく“教育”として捉えたいですね。

谷村:そうですね。“治療”や“癒し”の場合、クライアントに責任が生じない。ほとんど一方的ですよね。でも“教育”という位置づけにすれば生徒の側にも“学ぶ責 任”があることを自覚していただける。トレーニングコースもこういった事を理屈ではなくからだで理解する3年間だったとも言えるような気がします。

松嶌:もし生徒さんやクライアントが依存してる関係になっていれば、それはお互いの成長が止まっている証拠みたいなもので、不調や病気が何を伝えようとしているのかを一緒に学べるのが指導者や療法士の醍醐味ですからね。

中白:トレーニングコースの皆さんはもうすぐ卒業されますが、これが終わりではなく、新たなスタートとなりますね。実際のワークを通じて、これまで話してきた基本 や本質の意味が少しずつ深く理解でき、日常にも活かせて頂けることと思います。そして、私たち教師3人がアレクサンダーに対しての「向上心」や「諦めない 姿勢」は皆さんに伝わっていると思います。全員のご卒業を心からお祝いしたいと思います。

谷村:冒頭で話したように京都での[春のサットサンガ]では、そのお披露目ワークもする予定です。募集しますので是非お時間を作っていただいてワークを受けてください。それとサットサンガ終了後のパーティでは、みんなで祝っていただければ幸いです。

松嶌:とっても楽しみにしています。私たちも仲間として刺激を受け合って、それぞれの道を今年も前進するぞっていう励みになるでしょう。

谷村:そうそう、順子さんは今年の年女でしたね。何かいいことがあることを祈っています。

中白:それを言わないで下さい! 歳がばれるじゃないですか。(笑)