2008 新春鼎談
京都・先斗町歌舞練場近くの料理屋に3人が集まりました。
凛とした空気のなか、メールを駆使した対談をベースに新年に向けて研ぎ澄まされた話が淡々と進みました。
谷村英司 / 中白順子 / 松嶌 徹
谷村:あけましておめでとうございます。旧年中はいろいろとお世話になり、ありがとうございました。今年もどうぞよろしくお願い致します。
松嶌:おめでとうございます。協会の会員指導者、そしてインナームーヴ読者の皆様に、昨年のご理解ご協力に対して、深く感謝申しあげます。
中白:おめでとうございます。今年も宜しくお願い致します。
谷村:さて、1年を振り返ってみるところから始めましょうか? AT研究会の方では、まず私の初めての本が4月に出ました。遅ればせながら…。
松嶌:谷村先生のご本『からだを解き放つAT』は、前の「Wellness」時代からずっと誌上と実際のレッスンのなかで探求してこられたものですね。ほんとうにおめでとうございました。読者からの反響もいいようですね?
中白:谷村先生の本を読んで興味を持って下さる方が徐々に増え、本当に嬉しく思います。私も本を読んだ方々からの感想をお聞きします。「やっと探していた本に出会 えた」とおっしゃいる方が多く、理解者がこんなに多いとは思っていませんでした。でも先生の書き方が上手く、理解しやすいですものね。
谷村:ありがとうございます。これも会長や順子さんその他大勢の人たちの励ましがあってこそだったと思います。執筆が停滞していると会長がまだかまだかと私の尻をたたいてくれましたね。やはり人間は尻をたたいてくれる人がいないと駄目ですね。元来が怠け者にできているから…。
松嶌:それはお互いさまで。
谷村:おかげさまで9月には地湧社主催の読者のためのワークショップも東京でさせていただき、私の話に大変興味を持っていただいたようで私自身手ごたえを感じました。この本がご縁で各研究会の会員も徐々に増えてきました。
そうそう、先日はこの本に関して面白いエピソードを毎月私のワークショップに来ていただいている会員の方からメールを頂きました。ご紹介します。
英司先生の本は何度読んでもいつも新しく、ワークを受ける度に同じ言葉にもかかわらず深まっていきます。と ころで帰りのバスの中で不思議な出会いがありました。その方は自力整体の勉強に来たという方でしたが、ある友人にアレクサンダー・テクニークを本を読むこ とと、経験してみることを薦められ、今その本を読んでいるとのことでその方のメモ帳を見せていただくと、そこには、なななんと!谷村英司先生の名前が書か れてありました。「エーッ!私今までその先生のところでワークショップを受けてきた帰りなんです!」と思わず叫んでしまいました。それから以降は大変話が 弾んだのは言うまでもありません。先生の本がいろんなところに歩み始めていますね。
松嶌:すてきなエピソードですね。自然といえば街路樹くらいのビル街を歩いていると、ふと小さな羽虫がフワフワと漂うように、でも一生懸命に飛んでいるのを見るこ とがありますよね。こんなところに迷い込んでしまって可哀想にって思う次の瞬間、いや、きっとお前は、僕ら人間にはとうてい分からない力に導かれて出会う べき伴侶と都会のビル風に乗って出会い、ちゃんとどこかで子孫を残してゆくに違いないって気付いて見送る時みたいな。
谷村:詩人ですねぇ・・・。これからヘッセ・マツシマと呼ぶことにします(笑)。
中白:先生の本が先生の手元から離れ、読まれた方各自が理解し、色々な仕事や体の使い方に活かされるってステキですね。また、何十年も読まれ続けていくと思うと嬉しいです。
谷村:でも、実際はなかなか理解されにくい話題であること、パーッと売れる本ではないことも重々承知していました。それでも私は書きたかったし、言っておきたかったのです。そのチャンスを地湧社さんが与えてくれました。本当に感謝しています。
松嶌:むかしシャーリー・マクレーンのシリーズで親しんだ地湧社さんは、売りたい本より読ませたい本。読ませたい本よりも、社長自身が読みたいと思う本を送り出すような、ポリシーある出版社ですからね。
谷村:そうは言っても売れ行きがちょっと心配なので聞いてみると、劇的ではないけれどじわじわとあちこちで安定した売れ行きだそうです。でも、順子さんが言われた ようにこの本が私の手から離れて、いろんなところで話題になり、刺激になり、新しい何かが始まれば喜ばしいことですね。
松嶌:その刺激の連鎖は先生自身にもまた還ってきて、次の展開をもたらすんでしょう。だからこの一冊は集大成でありながら、同時に出発点だっていうのがよくわかりますし、実際、出版後にもワークは発展を続けていますよね。
中白:そうですね。先生はこの本を書き終えたけど、それで完結したことにはならないと思うんです。と言うのも、私が学んでいて、いつも思うことは「これで終わり」ということがないなぁと思うからです。
松嶌:ひとつ納得できると、すぐに次の疑問、次の課題を与えられるっていう感じでしょうね。それでも以前には理解できていなかったということが今になってわかる、 そういうことがどんどん増えてゆく面白さ。どこかの段階で総括することがあっても、それは途中経過であり中間報告ですね。
中白:本当に途中経過だと思います。でも、今まで学んだことが繋がってくる面白さもありますよね。そして、永遠に続く感じがします。
谷村:リカさんが本を持ってきてサインしてほしいと言われた時は驚きました。もちろん彼女は日本語が読めないから何を書いているかわからないわけですけど、誰かが リカさんにプレゼントしたみたいなんです。彼女も自分のために著作を何年も続けているらしいんだけど、ネバーエンドだってそのときに言っておられたのを思い出しました。
松嶌:去年中に完成するお話だったDVDの編集にも手間どっているようです。いつも上を目指すあの生徒への態度をご自身のワークにも向けておられるから、妥協することができないのでしょうね。
中白:リカさんのDVD楽しみにしてるので、私としては妥協して早く出してほしいです(笑)。
谷村:この“ネバーエンド”と正反対の態度が、ATでいう“エンドゲイニング”になるんでしょうね。エンドゲイニングは終わることを目指して終わるって感じ。ネ バーエンドの態度は決して終わろうとして終わらない、終わることを目的とはしないということになるような気がします。この二つは内面においてとても大きな 違いが出てくるように思います。前者は過去やその過去に根ざした未来に気を取られていて決して“今”に気づくことがない。ここで言えば“終わり”という先 のことに気を取られているわけです。だからそういう態度の中では何かと何かがつながって、新しいことが生まれることは決してないような気がします。このことをもう少し具体的に言うと、私のワークショップでの内容はここ10年ほどほとんど変わっていません。ほとんど変わっていないにもかかわらず「いつも新し い発見がある」と言って私のところに通ってきてくれる方々がいます。これは自分の内側に汲んでも汲んでも湧いてくる泉のようなものを発見されたからです。 その一方で、それはもうわかったから何かもっと新しいことを教えてほしいとか、同じことの繰り返しでつまらないとか言われて去っていかれる方もあります。 これは残念ながら自分自身の中にそういった無限の泉があるということに気づくことができなかったからのような気がします。
松嶌:どんな道にも通じることですね。わかったツモリになった地点から、やっとほんとうの学びというか醍醐味がわかってくる。
谷村:でも、わかったツモリで終わって、すぐに次へ行こうとする人も多いですね。そういう人にはこのほんとうの学びや醍醐味はわからないですね。
松嶌:誰が言い始めたのか知りませんが、成功の秘訣としてよく「運・鈍・根」の3つが挙げられます。 志村ふくみっていう人間国宝の染織家が、著書のなかで、そのことを書いておられるんです。
『鈍ということは…くりかえしやっていると、一回でわかったものとは本質的にちがったものが掴めてくる。木 のかたまりのなかから仏が生まれ、美しい器が生まれてくる。それが根(こん)ともいい根(ね)ともいうものにつながっている。それを大きく包んでいるもの が、運である。運は偶然にやってくるものではなくて、コツコツ積み上げたものが運という気を招きよせるのである。』(「色を奏でる」 ちくま文庫)
彼女は草木染の世界で愚直な努力という鈍を続けた人です。やがて根が育ち、新たな運を引き寄せるとおっしゃるんだけど、大切にされる姿勢ははとにかく 「鈍」ですね。でも人はつい「敏」に走ってしまう。そして「根」ではなく、「果」や「利」に気が向く。繊細な感性が育つほど、外のこと、他のことに敏感に 反応しやすくなるはずだけれど、そこで「鈍」に徹してゆけるかどうか…。今は面白さでいっぱいの先生方も、このワークを何年かして、“だいたい・わかった ”という感じがあった頃、続けるのに努力感はありませんでしたか? あるいは続けるための秘訣っていうものがあると思われますか?
谷村:その「鈍」という言葉の意味を「馬鹿げたこと」つまり、わかりきったことを繰り返しやることの馬鹿馬鹿しさというふうに考えると、本にも書きましたが、アレクサンダー・テクニークでやるチェアーワークなんて「鈍」の典型的なものと言えるかもしれませんね。立ったり座ったりの動作を何年も掛けてやっているので すから。普通に考えたら、バカとしか言いようがない(笑)。
松嶌:先日の「ヨギーニ」の取材記事でも、ワークを写真で説明するのには苦心していましたね。なんとか違いを見せようとしても、普通の人が見れば立ってる姿に変わりない。編集者が自分で受けて感じたことを、うまく文章では表現されていたけれど。
谷村:そこで会長の質問についてですが、続けるための秘訣なんてものはないような気がします。先ほど言っておられたように、その人がまっとうに探求しているとすれ ば、わかったと思えばその先には必ずまたわからないことが出てくるものだと思うのです。自分に正直であれば、そこでまたそのわからないことの探求が始ま る。そうしてどんどん深い理解が進んでゆく。ここのところに「根」の本質がある。「根」が土の中を深く、深くもぐってゆくように…。だからわかったことに してしまい、次へいってしまおうとする人にはこの「根」は育たない、したがって「運」もやって来ないということになるんでしょうね。この「運」は「はこぶ」とも読みますね。「鈍」の精神によって「根」が育ち、その絶えざる精神性がわれわれを導き、運んでくれるんでしょう。それが結果として続けるということになってくるんじゃないでしょうか。
中白:私の場合、トレーニングコース中も今も、理解すると共に理解していないところが同時に見え、新たな次の目標に向かって勉強しています。そして理解しないといけないことが沢山あるので、わかったと安心できたときはありません。だから努力感はなかったですね。
松嶌:それはワークを続けるための時間やお金の工面といった生活面でのご苦労も含めてですよね。
中白:まあ、そうですね。
松嶌:つまり、努力という言葉は本人がどう感じているかはともかく、周りがそう呼んでいるだけだっていうことなんでしょうね。自分には分からないことや、できないと決めつけたことを。だから志村さんも努力じゃなく「鈍」という言葉を選ばれた。『鈍感力』っていう本で書かれている、周りの評価に一喜一憂しない集中力 というか、図太さ。
中白:でも、教師になった今、生徒さんからワークの後の良い感想を聞くと満足してしまう瞬間はあります。それでも、生徒さんにハンズオンしている最中に、目標とし ていることが、できていないと気づく毎日ですね。谷村先生が言われたように、この16年間チェアーワークとテーブルワークで同じことをしていますが、飽き ませんね。毎回何かしら気づきがあるし。「今日も目標としていることができなかった」とか「少し近づいてきたかな」とか、色々な気づきが面白いです。努力感がなくできるのは、興味があるからでしょうか? 興味がないと面倒とか、そこまでしたくないとか、理解していないことに気づいているけど気づいていない ことにしょうとか、思うのでは? それとも意識が騒がしく、毎日疲れているので、理解したことだけしか見えないとか。どう思われますか?
谷村:私が思うに、努力感というのは抵抗があるときに生じるものだと思うんです。だからおっしゃるように興味があるときにはその抵抗感が少ないんでしょうね。でも一番の問題は興味を持つためには内的なエネルギーがぜひとも必要なんです。このエネルギーがないときには興味は湧いて来ないものでしょう?
松嶌:もし努力感があるなら、そのことに興味がなく、義務感や惰性で続けている証拠だということですね。痛い!って、いま僕と同じように感じた読者も多いのではな いでしょうか(笑)。だから、ちょっとかじっては逃げ出すように次のなにかへ行くクセのある人は、そのまま生きるエネルギーが枯れてしまうことを必要以上 に恐れているのかも知れませんね。興味が深まって根が育つ前に、立ち枯れへの不安で腰が浮いちゃう。
谷村:私に言わせればそれは反対で、根が育ってないからエネルギーがない。だから不安で腰が浮いちゃう。なぜならそのエネルギーを運んでくれるのはその根だからです。
松嶌:ただ、立ち座りや歩くっていう動物として根本の動きのバランスを崩したり歪んだり、結果として病気になったりするのは動物の風上にはおけないわけですが、そ の不自然さに気付いたり、本来の状態に戻るプロセスに興味を持てない、「同じことの繰り返し」だからつまらないっていうのは、自分が動物であるということ に興味がないのかもしれません。僕は、アレクサンダー・テクニークを知ったことでアサナに動物の名前が多いっていうほんとうの意味がわかった気がするんで す。数少ない基本アサナを繰り返すだけで充分なことが学べて、自分が飽きることもなければ、よく指導者が心配する「教えるネタが切れる」なんていうこともないって確信しました。
中白:アレクサンダーの教師の中でも「今度は何しょうかなぁ…? ネタ切れになってきた」と言われているのを聞いたことはあります。(笑)
松嶌:先日もテレビ局からこれからのヨガの役割りや可能性について知りたいという取材を受けたら、番組でひと言「次は“岩盤ヨガ”だ!」って。ひっくり返りました(笑)。局での編集にトラブルがあったらしんですけれどね。
中白:要するに何かを探求するには、エネルギーを持たなければならないですね。そして、エネルギーを持つには、根を育てる必要があり、その為には“繰り返すこと”つまり鈍の精神が大切だということだと思います。
谷村:それともうひとつ言っておきたいことは、いま順子さんが言われた“繰り返すこと”とは自分が探求したいことを“限定する”ということだと思うんです。そのこ とを限定できない人があれもこれもと手を出して根が育たない故にエネルギーだけを消耗してしまい疲れきっている。そう感じている人たちには「私はピアノの88弦という“限られた”音の中で無限の音楽を見出してきた…」という私の本でも紹介した『船の上のピアニスト』で主人公が言った言葉を思い出してほしいですね。
松嶌:あの映画で、船がニューヨークに着いてみんな彼の活躍を確信して送り出したのに、帰ってきちゃう。「陸が怖いんじゃなくて、終わりのない鍵盤が怖い」ってい うせりふは現代への警告ですね。各自が自由であることが権利のレベルを超えて義務というか脅迫観念になっている。学校でも、子供の人権なんていう呪文のおかげで“限定”は悪になっちゃった。しつけと虐待の区別がつかない変な時代。若者にワークをされるときには、まず学ぶ気構えというか姿勢が見えなくて戸惑われるでしょう。
中白:仕事、勉強、音楽、スポーツなど、何かをすることが既に限定の中に身を置くことだと思います。その限定の中で繰り返すことが、新たな気づきや学びとなるよう に思います。でも学校では、子供からするとあれもこれもと無制限に勉強させられている感じで、エネルギーが枯渇し、心身ともに疲れきっているように思います。だから学ぶ姿勢などないのが本当のところでしょう。最近は聞かなくなりましたが、学級崩壊とか言われているものもこの辺から来ているのかもしれません。
谷村:確かにその通りだと思います。それで思い出したのですが、国際ヨガ協会の中でも同じようなことでこぼしておられるのを聞いたことがあります。「私はヨガだけ で手一杯なのに、ヨガ療法、温灸、個性美学、矯正法、アーユルヴェーダ、あげくの果てにはアレクサンダー・テクニークなんてわけのわからないものまで (笑)…。私にはそんなに多くのことはできないわ」なんて、ごもっともなご意見です。もちろん会長は先ほど話した“あれもこれも”という意味でこれらを薦 めておられるわけではないと私は理解していますが、これを機会にその辺のところの会長の見解を皆さんに明確にしておいた方がいいと思うのですが…。
松嶌:ほんとに広がりましたね。確かに協会で展開している課題のすべてを追いかけようとされるとたいへんでしょう。テレビの裏番組を全て録画して観ようとするみた いなものかな。それでも多面的で多重構造の人間を丸ごと捉えるというのが創始者の掲げた理想なので、トレーナー資格のレベルまでは教室での指導のための基 礎課程であり、まずはわけがわからなくても人さまの健康に関わる立場として、最低限体験しておいてほしいんです。
谷村:なるほど、トレーナーの資格レベルまでは最低限の基礎知識として学んでほしいということですね。それが限定する、つまり根を育てるということになるんですね。
松嶌:どこに根をおろすかを見定めるためですね。協会の30年余りの活動のなかで選びぬかれながら広がった“最低限”ですから、指導の範囲では自信を持っていただ いていいと思います。そこから先が、各自が興味を持った分野やご縁で導かれた課題を深めるレベル。その段階では自然と限定されてゆきますし、自分の求める ものと違うのが分って課題を変えることになってもムダにはなりません。どの分野ひとつとっても“終わり”はないので、課題の選択も学び方も自由。焦らない で自分のペースでいってほしいですね。各分科会から師範代の先生方が誕生していますが、自分がなにかになろうなんて思わず、ただ根が育つことが楽しくて続けてきた人ばかりです。高い専門性と共通の基礎がある人どうしが体験を交換されることで、結果としてヨガ健康法の充実につながれば嬉しいです。
谷村:わかってきました。はじめの質問自体に混乱があったように思います。要するに根が育つ前に、あるいは根を育てないであれもこれもと飛び移る学び方が問題なの であって、根を育てる為の最低限の基礎知識は持たなければならない学びまであれもこれもという学び方として捉えてしまったこと自体が間違っていたんじゃな いでしょうか? 次から次へと飛び移るような学びは根を育てる“根気”のない人のやることですね。そういえばこの“根気”、“根性”すべて根という感じが ついていますね。
松嶌:なるほど。2008年のテーマは“ど根性ヨガ”でいくかな(笑)。
谷村:“ど根性ヨガ”は、ネーミングが悪いです。(笑)“根おろしヨガ”、“根育てヨガ”ってのはどうでしょう?
松嶌:“ 根育て”はいいですね。世の中はいつもザワザワしてますから、指導者が不安になることもあるでしょう。何年経っても終わりにならないから、若い指導者が自 分を追い抜いてゆくように思えることもあるかもしれない。でも自分の経験を信じて、悠然と根を育ててゆけばいいんです。そのうち、あ~こんなところで!っ て根っこでつながっていたことに驚くこともあるでしょうし。
中白:アレクサンダーのトレーニングコースももともと根育てワークですね。生徒さんを責任もってワークするには、浅い理解では卒業していただけないですものね。 「知りたい」「わかりたい」があると、自然に根が育っていくのではないでしょうか? 私の場合も「知りたい」という思いが、忍耐や我慢という感じがなく学べたように思います。
松嶌:ピュアな「鈍」の精神ですね。自分が好きだっていう内側の声、正直な方向性に従っていれば、少々の我慢や努力は苦にならないもので、それでこそリカさんのように、にっこり“ネバーエンド”って言える。
谷村:以前にも話しましたが、白から赤までという限定された世界の中に無限のピンクが潜んでいます。それを掘り起こすことが学びであり、その学びは“ネバーエンド ”ですね。今年もわれわれのネバーエンドの学びが始まりますが、特に順子さんは春、秋のリカさんの日本でのワークショップに加えて、ボストンとニューヨー クでのワーク参加、スイスのコングレスと学びがいっぱいですね。
中白:リカさんのワークを受けるようになり3年になりますが、さらに勉強したいと思う気持ちが強くなって、今年は勉強する期間を多くしました。ボストンでの勉強 は、前からリカさんに来ないかと誘われていまして、英語ができない不安で決心できなかったんですが、上手に話せるようになってからだとお婆さんになってしまいそうなので決めました。
松嶌:リカさんが日本から出て視野を広げなさいっていうのには、人に伝えるためにいろんなアイデアを持ちなさいっていうことと、自分たちのワークに自信を持ちなさいっていう励ましがあるように思いますね。
中白:今年の私の目標はワークの向上と、アレクサンダーに興味あるなしに関係なく、初めてアレクサンダーを受ける方に、もっと理解しやすく、適切な言葉で説明できるようになりたいとも思っています。正確な言葉での説明が、よりクリアーな気づきへと導いてくれると思うんです。
谷村:なるほどそれは大切なことですね。それも順子さんの根育てのためのチャレンジですね。
松嶌:3月の〔春のサットサンガ〕では参加者みんなで体験したいと思っています。ご指導、よろしくお願いします。
谷村:あらま!これまた大変なチャレンジになりそうです。あんな大人数の人たちを相手にどうすればいいのでしょう。順子さんはどう思われますか?
中白:大人数なのでハンズオンは難しいかもしれませんが、言葉によるリードでアレクサンダーを理解する入り口になる体験ができればいいですね。
谷村:そうですね。今は何にも頭に浮かんできませんが、何とか前向きに考えたいと思います。
松嶌:いつも「そう来るかぁ」っていう意外な発見をさせていただいていますから、私がいちばん楽しみにしています。
谷村:こう考えると、今年も様々なチャレンジが待っていますね。それらのチャレンジによってよりしっかりした“根”がそれぞれの足元深く張っていくことを願ってカンパイしましょう!
三人:カンパ~イ*!
*ちなみに下戸3人、乾杯はほうじ茶でした。
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