パトリック・マクドナルドの"As I see it"から
日本アレクサンダーテクニーク研究会・代表
谷村英司
パトリック・マクドナルド著“テクニークの真髄”(As I See It)横江大樹訳の中に掲載されているものを紹介させていただきます。彼のお父さんが医学博士で、F・M・アレクサンダーに傾倒しており、息子である彼が脊椎の問題を抱えていたためにF・Mのレッスンを10歳のころから受けさせました。後にF・Mが彼の後継者として認めた人物です。この本にはATに限ったことではなく、われわれ人間が生きていく中で犯しそうな間違いや、失敗について書かれてあり、いつも私自身を考え直させてくれる本です。そしてそれらは空理空論ではなくて、ATのワークという実際的なワークを通して生まれて出てくる問題提起が、われわれ人間の一人一人の人生の比喩として語られているかのようです。
そんなわけで今回はATの世界に対して苦言を呈している走り書きを紹介させていただきます。
この走り書きは1955年9月のものだが、残念ながら報告しなければならないことは、アレクサンダー・テクニークを大衆化しようと頑張っている一派についてのことだ。風評によると、必要なものが、たったの数回のレッスンで事足り、そしておそらく、誰か大変上手に習得するにしても書物があれば教師の手助けなどなくても可能だという提案がある。私自身の実体験は、生徒としても教師としても両方から即座に直接的に正反対で、彼らの見解と違う。まったく躊躇なく言えることは、私の意見ではこうした風評を流している連中は、無知か嘘つきかのどちらかであるか、その両方である。事実として、アレクサンダー氏がなんとか発見し、完成に漕ぎつけテクニークに手助けがなかったにしても、他人にはできないのは誰も同じで、私の今まで出会った中で全く同じにやれた人などいない。一般論として時間はかかるし、皆さんには大量の思考及び厳しいワークがいるし、教師の手助けがあったとしても、何か価値のあるものを手に入れたければ、それしかない。
1955年というと私が生まれたのが1953年ですから約60年前の話しです。F・M・アレクサンダーが亡くなる1年前のことです。そのころから比べると様々なものが進歩したようですが、人間のやることは今も昔もそれほど変わっていないようで、今でもこんな話しをあちこちで聞きます。おそらくこういった現象は残念ながらいつの時代でも人間社会においては避けられないことなのかもしれません。
義憤
このように世の中を達観したような言い方をしながらも、私はこの種のものに義憤を感じているのも事実です。マクドナルドもおそらく同じ気持ちであったろうと思います。それは、そういった連中は“無知か嘘つきか、その両方だ”なんて辛らつな言い方から伺えます。そうかと言ってここで私が義憤に駆られて、こういった人たちの批判や悪口を並べてやっつけたとしても、世の中は、何にも変わりそうにありません。それよりも何よりも義憤という感情が自分自身を害し、自分の周りも不愉快にしているものです。この年になってようやくこのことに気づきました。「ちょっと遅すぎ!」なんて言われそうです(笑)。気づけない原因の一つは、他人の良くない行為に対する“悪口”はそれを言っている私にとってはある種の快感であり、蜜の味なのです。ですから周囲は決して心地の良いものではないにもかかわらず、私にとっては心地いいものですから、そのことに気づけないでいたのです。もう一つは自分が正しいことをしている、あるいは言っているという思い込みからです。ですから世の中の、正義の味方をしている人たちもこの自分自身の義憤の感情とそこからくる悪口の蜜の味には気をつけましょう。それらは決して肯定的な考えを生まないし、建設的な行為に向けて動き出すものにはなりません。ちなみに義憤を辞書で調べてみると「道義に外れたことに対するいきどおり」とありました。
質のいいものを理解するには時間が必要
しかしながら、理性的にこういった傾向がどうして起こってくるのか? そしてそれが社会に、個人にどういう現象を生む可能性があるかを考えることは、それなりの意味があるのではないかと思います。
ATのワークは私がする知る限りかなり質の高いワークであることは確かです。しかしながら彼が言っているこの種の風評を世の中に吹聴する人たちはATの質を低下させ、失墜させることになります。なぜなら、もし仮にこういったワークを学んだ人たちが世の中に増えてゆくと、数回のレッスンで学んだことだけがATのワークだということになって、質の良いものを知っている人がいなくなり、その結果、残念ながら本来は質のいいワークであったATが世の中から消え、お手軽に手に入るATだけが残っていくことになります。
もちろんこういった人たちは、ATの質を低下させたいとは思っていないでしょう。むしろこの質のいいワークがたったの数日で手に入るということですからこんな結構なものはないということなのでしょう。とすればマクドナルドが言うように彼らはATに関して無知としか言いようがありません。英語の“無知”という意味は、「経験がない」という意味合いが強いらしいです。したがって彼らは質のいいワークを経験していないからそんなことを言い出したのかもしれません。
あるいは彼らが質のいいATのワークを経験しているとすればそんなことはないということは理解できたはずです。それにもかかわらずそんなことを吹聴しているとすれば、嘘つきとしか言いようがありません。例え難しくなく、簡単で、安価にこのワークを学ぶことができれば、多くの人たちがATに親しんでくれるのではないかという善意から発したものだとしても嘘は嘘です。質のいいものを理解するには、長い時間が必要なことは誰もがわかっていることです。彼が言うように、何か“価値”のあるものを理解したり、手に入れたりしたければ時間をかけて努力する以外に方法はないのです。
質と価値
そしてこれと関連して、今彼が引用した“価値”という言葉から思うことは、世の中は質とその価値は必ずしも一致していないということです。その質に見合った価値がつけられている世の中はとてもいい状態と言えるのではないかと思います。しかし質が悪いのに価値が高かったり、質が良いのにその価値が低かったりする世の中はお互いが信用のできない、危ない世の中のような気がします。
例えて言うなら「悪貨が良貨を駆逐する」というイギリスのグレシャムという人が唱えた法則があります。これは銀の含有量が少なくて金の含有量が多いコインと、同じ大きさだが銀の含有量が多く、金の含有量が少ないコインの二種類が同じ額面で同時に流通したとします。この二種類には、国や有力機関が保証している点で価値は同じとします。しかし貴金属含有量としての実質価値つまり質は違います。仮に、金を多く含む、質の良い方を良貨、金を少なく含む、質の悪い方を悪貨とします。すると世の中には質の悪い悪貨が広く流通していきます。なぜならどちらも同じ価値なら、そちらの方が低価格で、容易く作ることができるからです。こういうことが世の中に広がっていくと、質は低下し、経済的信用が失われて、衰退していくしかありません。質に見合った価値を持っていない、あるいは価値に見合った質を持っていない世の中になるからです。
こうなることを防ぐことができるのは、われわれ一人一人の内面の正直さと精進(無知から脱却する)しかないように思います。その精進した知性で物事を見抜くことができれば、この種のことに騙されることはなくなり、これらが世の中に蔓延することは少なくなるでしょう。そしてこれが結果としてわれわれ一人一人の質を育て、信頼のおける社会を確立するということにもなります。人や物の社会における価値は時としてでっち上げられてしまいます。その根っこにはやはり無知と嘘があるのかもしれません。こう考えるとマクドナルドが言ったことは義憤からではなく、冷静に本当のことを言っただけかもしれません。
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